縄文時代ってどんな時代?
縄文時代とは、今から約16000年から2300年くらい前まで、1万年以上の長い間続いた時代のこと。
縄文時代の前、旧石器時代との最も大きな違いの一つが「土器」の出現によって区別されることです。土器は煮沸を可能として、可食範囲を広げ、衛生面でも飛躍的な向上をもたらしました。
自然の恵みと脅威にさらされた縄文時代
縄文時代には人間にとって、良いことと悪いことの両方が起こりました。
大きく分けると以下の事柄です。
恵(良いこと)
温暖化により、本州の樹林層には針葉樹に加えて広葉樹林が大きく増えた。 針葉樹とちがい、広葉樹にはクリやドングリ、クルミといった食料源となる木の実がたわわに茂るため、縄文人の食卓は飛躍的に豊かになった。
脅威(悪いこと)
・火山の噴火
・海面の上昇
・大地震
大災害は人々の生活を脅かした。
縄文時代の常識を覆した阿久遺跡の発見
華やかで豪華な装飾を持つ土器や土偶。これらは縄文中期の特徴で原始時代の頂点として知られています。それに対して縄文前期は、日々の生活でめいっぱい、芸術性に乏しい実用一義の時代と考えられていました。しかし、阿久遺跡の発見は、これまでの考古学界の常識を大きく覆し、縄文前期観を転換したと言われる大発見となりました。
阿久遺跡DATA
阿久の時代・縄文時代前期には、それまで食料を求めて移動を繰り返していた暮らしから、温暖化による環境の変化に伴う安定的な食料の確保によって、定住という安定した生活を可能としました。それにより暮らしや文化は発展し、大きな"ムラ"の出現を促し、祭祀行為を伴う原始文化は頂点に向かっていきました。
阿久を読み解く
キーワード
- 定住生活の定着
- 尖底から平底へ 〜土器の変遷
- 石造構築遺構の出現
- 装身具の発達
- 漆工芸の開花
いつ?今から7000年前、縄文時代前期に小規模なムラの出現
どこで?日本の屋根の一つ「八ヶ岳西南麓」
どんな特徴がある?中でも以下の特徴が大事なポイント!
・方形柱穴列
穴の底には根固め状の石があるものもあり、柱が立っていたと考えられています。阿久遺跡の他、わずかな遺跡にしか見られない特徴的な構造です。
阿久遺跡では、集石やお墓が多くあることから葬送儀礼に関わる施設が建てられていたとの考えもあります。
・土坑と集石
土坑とは、長径50cm~120cmのほぼ楕円形「穴」のことです。784基も発見されて、ムラの暮らしに大切でした。貯蔵やゴミ捨てといった考えのほかに、墓であった可能性があるのです。穴の上には大きな石やこぶし大の石が、墓標のように据えられて、その中には死者が生前使ったと思われる土器などの道具や装身具などがあるからです。なお土坑は、ムラの中央に造られるという規則的な配置が、何世代も続いていました。
10数個から数百個の、こぶし大から人頭大の石を集めた遺構が集石です。Ⅱ期からはじまり阿久集落の終わりまで、最終的には271基という膨大な数が造られました。50cm~1.5mの穴に、1段~3段ほどに石が積まれ、総計では2万個にも達する量が運び込まれていました。
もう一つの特徴である集石は10数個から数百個のこぶし大から人頭大の石を集めた遺構で、271基も見つかっています。
50cm〜1.5m程の穴に1段〜3段程の石が積まれていて、総計では2万個にも達する量です。
・環状集石群
集石は、住居の造られた場所の内側に、その中央部が空白となるようにドーナツ形の範囲に造られて、「環状集石群」と呼ばれます。長軸120m、短軸90m、幅30mという大規模です。
これは葬送儀礼に関わる祭祀のためと考えられて、生の世界と死の世界を隔てる「賽の河原」のような意味が推測されます。
・立石と列石
ムラのほぼ中央に「円形石組をもつ立石」が造られました。立石は、長さ120cm、幅・厚さが約35cmの花崗閃緑岩製(茅野市永明寺山塊等、遺跡から十数キロ離れた場所)の角柱状の石で、この南側に長さ幅30~50cmの安山岩が、囲むように配列されていました。立石から約2.5m北には、8個の板状の安山岩が2個一対で、2列に並列して立っていたと推測される状況で存在しました。富士山とよく似た美しい山容の蓼科山方向に向けて造られて、信仰の対象となっていた可能性を強くして、祭祀的な意味を伺えます。この事を裏付けるかのように、立石は全面に火熱の痕跡がありました。祭りに火は欠かせません。また、列石下部の土坑から祭りに使われたと思われる、特殊な形の土器も出土しました。
原村で暮らす人は、ほとんどみんなが知っている阿久遺跡だけど、具体的にどんな遺跡だったのかは、あまり知られていないよね。実は、縄文研究の常識をくつがえした遺跡なんだよ!
縄文海進
縄文時代の前期、温暖化は海面の上昇を招き、海からはるか遠い群馬県の奥地にも貝塚が発見されて、この山中まで海が押し寄せていたことがわかります。海面上昇は生活の地を奪うという、多くの縄文人には脅威であったはずです。ただ一方で、山中で海の幸を知らなかったごく一部の人々には、多少の恩恵になっていたかもしれません。阿久遺跡のある原村は、現在の静岡県くらいの気候で過ごしやすかったようです。
埼玉県富士見市の、荒川を望む台地の縁に水子貝塚(国史跡)があります。使われなくなった住居の窪地に貝殻等を捨てた貝塚ができ、これが58か所も確認されて直径約160mの環状に分布する大遺跡です。縄文時代のこと。もう何年も、台地の下に、じわじわと水面を上昇させて海が迫ってきたのです。このムラもやがて水没してしまうのか。恐怖との戦いの続いたムラでした。他のムラでは、安全な山に向かった人々も、少なくなかったことでしょう。
茅野断層の大地震
阿久遺跡から西方約300mほど離れた場所で発見された阿久尻遺跡では、非常に大規模な地割れ跡が幾筋も発見されています。
阿久Ⅱ期とⅢ期には一定の空白期間がありますが、大地震での壊滅的な打撃で、ムラを放棄せざるを得なかった原因だったとも考えられます。
阿久遺跡からのメッセージ
今、人類は、地球規模的な温暖化・異常気象・大地震などの不安を現実的に抱える環境に直面しています。加えて国際的紛争の不安も極めて大きく、多くの難民といわれる人たちも生まれています。それはあたかも、阿久のあった時代のようです。
7000年前の阿久は、列島全体に災害が降りかかる中でも、閉鎖的にも、排他的にもならず、生活の場を追われた多くの人たちを受け入れたことがうかがえます。日々の生活は決して楽ではなかったと思われますが、大規模な柱穴を持つ大きな建物が沢山造られ、大きな石や、小さくても無数の石が運び込まれ、皆の一致協力で新しい文化を創造したその姿は、地域全体の繁栄の証と考えられるのではないでしょうか。厳しい縄文前期を生きた阿久の人たちが残したメッセージは、まさに現代の私たちに、近い未来をシミュレートさせてくれるような大きな教えを伝えてくれているようです。そのメッセージを次の3つにまとめてみました。
- 受容
- 阿久の人々は、閉鎖的でも排他的でも決してなかった。列島全体に災害が降りかかる中、生活の場を追われた多くの人たちを受け入れた。
- 協働
- 阿久では、大きな柱を持つ施設がたくさん造られ、大きな石や、小さくても無数の石が運び込まれた。日々の生活は決して楽ではなかったと思われる中でも、老若男女、皆の一致協力により新しい文化が創造された。
- 共栄
- 大祭祀場をともなう阿久ムラへの多くの人々の集まりや、他地域との積極的な交流は、地域全体の繁栄へとつながった。