諏訪湖底・曽根遺跡と旧石器の狩人たち

Prologue

諏訪湖に眠る曽根遺跡と
旧石器時代から縄文草創期の諏訪

諏訪盆地と八ヶ岳西麓を中核とする中部高地と呼ばれる地域は、日本でも特に縄文文化が花開いた地域でした。
その幕開け、縄文草創期と呼ばれる時代の遺跡が曽根遺跡です。明治41(1908)年、諏訪湖の調査を行なっているときに偶然石鏃(せきぞく・石でつくった矢じり)を見つけたのがきっかけとなり、諏訪湖の底に遺跡があることが判明しました。曽根遺跡と名付けられたこの遺跡は、諏訪の考古学の始まりを告げるものでもありました。縄文草創期は「縄文時代」の始まりの一時期ですが、それより以前の「旧石器時代」(土器や弓矢がが使われる以前の時代)の遺跡も諏訪湖東岸の丘陵地や霧ケ峰高原に数多く残されています。
旧石器時代から縄文草創期という、諏訪に初めて現れた狩人たちの足跡と、これからの発見に関わる考古学の物語をたどってみましょう。

旧石器時代から縄文草創期の諏訪

縄文時代って?

いつ頃?

およそ1万5000年前から
2300年頃と前まで

2万年以上続いた旧石器時代の後に訪れた時代で、約1万年ほど続きました。

何が変わった?

気候が緩やかになっていった

地球は過去100万年の間だけでも11回の氷河期があったとされています。「ヴェルム氷期」と呼ばれる最後の氷期が訪れたのが7万年程前。この氷期でもっとも寒かった2万5000年ほど前は年平均で現在より気温が7〜8度低かったと言われています。このもっとも寒かった時代を経て、地球は徐々に暖かくなっていくのですが、その間にも短い周期で寒くなったり暖かくなったりを繰り返しました。縄文時代の始まりごろ、約1万2000年前は再び寒くなる時期を迎えましたが、これが最後の「寒の戻り」で、以後は比較的順調に暖かくなっていきました。

その結果...
動物や植物が変化した

温暖化が進んだ1万年前頃になると、自然環境は大きく変化。植生は針葉樹林から広葉樹林へ、動物もナウマン象やオオツノジカといった大型動物は絶滅し、熊や狐や兎などの、現在目にする小型の動物に替わっていきました。

その結果...
①土器が浸透した

土器は旧石器時代であった約1万5000年前に発明されました。ただし、本格的な土器づくりは、気温が温かくなってきた約1万年前頃。広葉樹はさまざまな実をつけても、そのままではアクなどがあり食べられません。煮沸してアクを取り除くために活躍する土器が数多く作られるようになりました。

土器は曽根でも発見!

縄文草創期の曽根遺跡でも爪形文土器(爪の形の文様が付いた土器)が見つかっています。ただ、後に「寒の戻り」で寒くなったこともあってか、また土器の数は減っていきました。

②狩りの武器が変わった

ナウマン象などの大型動物の狩りに効果的だった槍も、狐や兎といった小型で素早い動物を仕留めることには向きません。そこで、縄文時代の始まりを告げる新しい道具=弓矢が、縄文草創期に登場しました。矢の先につける石鏃(矢じり)が曽根遺跡にもたくさん見つかっています。

③定住生活に

旧石器時代は、獲物などを求めてのいわばテント暮らしの遊動生活。暖かくなって食料が豊富になると、地面に穴を掘って柱に屋根をつけた竪穴住居に暮らす、定住生活が始まりました。

曽根の人々が現在の私たちに伝えるもの

曽根遺跡への道のりと、草創期・曽根遺跡の暮らしぶりを見てきました。弓矢や土器の登場する時代が縄文時代で、旧石器時代とは人々の生活の様子も大きく変わってゆきました。
特に環境変化と相まって、土器は大いにその威力を発揮しました。この時期たわわに茂るようになった広葉樹には、ドングリやクリやクルミといった食べることのできる実がつきました。しかしそれらの中には、アクという人には食べることのできない物質が含まれました。しかしそれは、煮沸することによって取り除くことが出来るのです。土器がここぞと、威力を発揮してくれました。食糧が豊かになると、人々の寿命は延びて、人口も増えてゆきました。そうするとどうでしょう。草創期の頃にはまだ旧石器時代さながらの粗末なテントか、山の中の洞窟での暮らしが主流でしたが、洞窟は手狭になり、テントは漸弱ですぐ壊れてしまう。大地に穴を掘ってのしっかりとした、竪穴住居を作ることになってゆくのです。いくら人口が増えても、また竪穴住居を作ればいいのです。
何より、動物を追っての遊動生活でしたが、木の実のなる森林は逃げることはありません。しっかりした竪穴住居で、定住生活を可能としました。
さて、定住生活で大変大きな恩恵を受けた人。お年寄りです。遊動民は自らの命の限りを、自らで決めていました。移動の為に50kmも歩かなくてはならない状況の中、周りに迷惑をかけまいと、皆が移動する朝、見送る立場になるのです。若者たちはありったけの食料を置いて旅立ちましたが、何か月かして戻ってくると、遺体との対面となるのです。
定住生活になると、お年寄りは自らの命を決める必要がなくなりました。そればかりか、子どもの世話や軽労働なら、その集団で十分役立つ事が出来るのです。若者もその分、存分な労働に集中する事が出来ました。
寿命が延び、人口が増え、住居の数が増えて集落の規模が大きくなる。縄文時代早期から前期へ、さらに中期へとその傾向が極めて顕著になってゆきます。前期の原村の阿久遺跡、中期の茅野市・尖石遺跡、富士見町・井戸尻遺跡は、多くに人の知る通りです。
草創期の人たちの歩みの延長の姿です。こうして特にこの地は栄え、2018年には「星降る中部高地の縄文世界」と、日本遺産に認定されることになりました。

ただし最後に。人々の暮らしの歩みを豊かにしてゆくうえで、みてきたように発明の力の恩恵は絶大です。しかし、例えば弓矢を見てください。やがて戦争で人を殺める武器となってしまうのでした。使い方を一歩間違ってしまうと、自らに刃を向ける凶器となってしまいます。発明した縄文時代の人たちが見たらどう思うでしょう。しっかり耳を傾けなければならないと思います。