阿久ライフスタイル その時代、どんな暮らしをしてた?

ムラの始まりと縄文人の暮らし

出土品や遺構からわかる、縄文の人びとの暮らし方

阿久遺跡からは、たくさんの家の跡をはじめ、方形柱穴列土坑、集石が発見されました。そのほかにも、生活に使われた土器や石器などの道具類や装飾品もたくさんあります。これらはまさに、縄文人の暮らしぶりを伝えてくれます。決して語ってはくれないのですが、生活・暮らしを知る大きなヒントが詰まっています。阿久の暮らしぶりに迫ってみましょう。

住環境の変化

平面の形

平面の形の特徴 家の形にも流行があったようです。中期の住居は円形で、そこに向かうような変化です。

Ⅱ期:台形・方形

Ⅱ期:台形・方形

Ⅲ・Ⅳ期:隅丸方形・楕円形・円形

Ⅲ・Ⅳ期:隅丸方形・楕円形・
     円形

Ⅴ期:円形

Ⅴ期:円形

家の構造

長野県立歴史館では実際に復元された家を見ることができます。

長野県立歴史館では実際に復元された家を見ることができます。

家を支える柱

基本的に4本の柱で上屋を支える構造です。南側に入口部が造られますが、2本並列する柱の存在が入口部の目安となります。

家の施設

37号住居から発見された石囲炉

37号住居から発見された石囲炉

暖を取る、調理をする、そもそも薄暗い家の中の明かりともなります。この時期の炉は、大半が地面を掘りくぼめただけのもので、地床炉と呼ばれます。なかでも1軒37号住居のみには、石で囲まれた石囲炉があります。この形態がやがて中期の炉の主流となってゆくのです。

1棟に1つの固定式石皿が備わっていたようです。

1棟に1つの固定式石皿が備わっていたようです。

固定式石皿

Ⅱ期のみの特徴ですが、扁平大形の石皿が置かれています。堅果類*の調理やその他の作業台として使われたものと考えられます。炉の周辺に多くあり、冬や雨の日でもここでの作業を可能としました。
*堅果類・・くるみや栗、どんぐりのように硬い皮をもつ木の実のこと

この住居跡からは3回の建替えの様子がわかります。

この住居跡からは3回の建替えの様子がわかります。

拡張・建替え

今でも、増築や改築といった家の改造が行われます。すでに阿久の時代からでした。家族の人数が増えたりし、手狭になったからでしょう。拡張や建替えは結構多く、阿久全体で64軒の住居中23軒という、3分の1以上の家に認められ、なんと3回行われている家もありました(69・74住)。まさに長期居住の証拠であって、定着性の高まりをよく示します。

土器の変化

土器は、生活には欠かすことのできない、貯蔵や調理の煮炊きを行うための大切な道具です。
一方で、装飾や形には地域や時代による特徴があり、時間の経過とともに変化もします。従って、その特徴を知ることで、その土器がいつ、どこで作られたものかが分かるのです。そして細かく観察すると、地域間の影響関係や生活の変化も教えてくれます。

土器の底

土器の底が、尖底から平底になるという、大きな変化を示す縄文時代前期

土器の底が、尖底から平底になるという、大きな変化を示す縄文時代前期

文様

特にⅡ期の阿久遺跡では、いろいろな地域の土器の特徴をもって誕生します。縄文土器とはいっても全く縄文文様のない土器が、関西や東海地方の強い影響を受けてこの地で生まれて、「中越式」と命名されます。一方、関東地方では、縄文文様をたくさん使った土器が流行していました。こうした関東地方の土器の影響もありました。
やがて阿久遺跡のⅢ期以降は、中部・関東地方は融合し、共通の文様が使われるようになりました。

文様のない土器は関西や東海地方の影響を受けている(中越式)

文様のない土器は関西や東海地方の影響を受けている(中越式)

関東地方の土器には縄文文様が特徴的(関山式)

関東地方の土器には縄文文様が特徴的(関山式)

道具の違い

当時の道具を、ここでは男女別という視点で見てみましょう。今では仕事上での男女の区別は、非常に小さくなってきました。とは言うものの、身体上の違いは小さくなく、仕事の違いとなって現れることも少なくありません。男性は筋骨隆々、力仕事には向いています。女性は、力は強くなくとも、コツコツ手間暇かけての仕事を厭わないかもしれません。かつて世界の民族調査を行った人類学者・マードックは、多くの民族に共通しそうな男女別の仕事の分担のあることを紹介しました。分業とはある程度文明社会が発達して組織化した時代に現れるのですが、しかしこうした性差に基づく分業は古くからあり、これを『自然発生的分業』と呼ぶのです。仕事の違いは、道具の違いとなって現れます。

男性の道具

石鏃

石鏃:狩猟の道具

磨製石斧

磨製石斧:木の伐採や加工

女性の道具

石皿

石皿:木の実などをすりつぶす下の台

くぼみ石(磨石)

くぼみ石(磨石):木の実などを割ったり、すりつぶす道具

男女共用(?)の道具

石匙

石匙:切ったり削ったりナイフのような道具

打製石斧

打製石斧:土を掘る道具

祭の道具 男女の区別は不明確です

異形土器

異形土器

極めて変わった土器があります。祭りの際に、神に捧げあるいは人も共に食するための神人共食の器だったかもしれません。

安定しない土器

安定しない土器

土器の中には、底が丸くてとても安定して据えられたとは思えないものがあります。よく観察すると、文様は横から見るより下から見た方がハッキリと見えるものも多いのです。ということは・・・あるいは吊るされて、下から覗き見るようにされたものもあったのかもしれません。お祭りらしい光景です。

ミニチュア

ミニチュア

非常に小さな土器で、実用のものとは思われません。今で言う雛飾りに添えられるよミニチュアのように見られます。

玦状耳飾などの装身具
玦状耳飾などの装身具

玦状耳飾とは、阿久の時代に流行した、いわばピアスの一種の耳飾です。切れ目のある環状で、耳にはこの切れ目から通して、耳タブの孔を半回転させて装着しました。多くはきれいな滑石でできていますが、土製品もありました。あこがれの滑石品が手に入らなかった人がどうしても欲しかった、と想像できるようにも思えます。
このほかにも小玉や管玉などがあります。

イノシシ土器

イノシシ土器

縄文土器の文様は、その大半が非常に抽象的な文様であり、具象的な文様を持つ土器は中期にならないと出て来ません。ところがこの時期、唯一具象的な文様として、イノシシの顔が付いた土器があるのです。
縄文時代の狩りの対象のトップが、イノシシとシカです。この両者の最大の違いが出産頭数。シカはせいぜい1~2頭、対してイノシシは多産です。豊猟に感謝して、あるいは狩りの恵みを祈ってイノシシ装飾を付けたのかもしれません。

ムラでの仕事

仕事には、みんなで関わる仕事、性別に複数人でやる仕事、特殊な技術者の仕事、といった見方もできます。先ほどの性差に加えてみてみたいと思います。
さらにお年寄りという視点も大切です。移動生活では、何十kmもの移動を困難としたお年寄りは、若者の足手まといになることを避けるため、移動の輪に加わることなく、自らその地で死を迎えることを覚悟しました。しかし、定住生活は、移動の必要をなくして、寿命の時までを生き永らえるようになりました。年をとってもできることはいくらもあります。子供の世話や採集などの軽労働。これがとても大きな力となって、ムラのますますの繁栄の原動力となりました。

みんなの仕事

みんなの仕事

・大きなものを運ぶ - 木柱や立石
・家や方形柱列の建物や集石を造る
     - 皆の頭の中に共通の設計図

これらの仕事は御柱さながらの賑わいで、力を合わせて運び、造る姿が浮かびます。お年寄りは、子供の子守や、食事の用意など、陰で支えることもできました。

性別に複数で

石鏃

石鏃

黒曜石の原石(右)と破片

黒曜石の原石(右)と破片

男たちの仕事 - 狩りや石器作り

石器-硬い石を加工するには力が要ります。沢山の剥片(石屑はここで作った証拠)が出土しています。

石器作りの痕跡

1943点。これは阿久遺跡の調査で発見された石鏃の数です。その95%は黒曜石でできています。この凄い数は、他のムラに配ってもあり余りましょう。
47361点、これは黒曜石の原石や、石器を作った際に出た破片の数です。恐ろしく膨大な数は、よってここで石鏃をはじめとする石器作りの行われていたことがわかります。
くずといえども、しっかりと当時の生活を伝えてくれているのです。
もちろん黒曜石以外にも、いろいろな石材の石器を作った時に出た屑がたくさん見つかっています。

石皿

石皿:木の実などをすりつぶす下の台

土器の使用痕

土器の使用痕

女たちの仕事 - 植物採集や調理や土器作り

土器づくり

粘土というやわらかい素材を使った土器作りは、女性の仕事といわれています。ほかの遺跡で作られて持ち込まれた可能性もありますが、阿久遺跡ではここで作られた確かな証拠があるのです。焼成を受けた粘土塊が、230個(住居57及びその周辺グリッド)も出土しました。土器を作って余った粘土をクシャット丸めて火に入れたものでしょう。出土した場所は使われなくなって窪地となった住居の中で、その住居の床は焼けていました。あるいはここで、土器の焼成が行われていたかもしれません。

調理 土器に現れる煮炊きの痕跡

土器はモノを煮たり蒸したりするための、今でいうナベ・カマです。実際にそのような痕跡がつぶさに観察されるのです。土器に食物を入れて水を入れ、外から火で熱します。その時、土器の外側の火の当たった個所には、煤が結構付くのです。一方、内側は。火が強いと焦げ付く場合がよくあります。こうしたまさにおこげの跡も明瞭です。吹きこぼれの跡などもみられます。

匠の出現

漆工芸

複雑な工程と高度な技術を要する漆工芸ですが、土器作りと共に漆の加工技術を持った人が、このムラにいたことがうかがえます。阿久遺跡でも漆の着色に使用されたと考えられるベンガラの原石や微細な粉末、漆が厚く付着した小型の土器などが見つかっているのです。特に、漆の赤の発色の素・褐鉄鉱は、蓼科山の麓にある諏訪鉱山に豊富で、資源にも恵まれていたのです。

漆の入っていた土器

漆の入っていた土器

赤い漆の塗られた土器(破片)

赤い漆の塗られた土器(破片)

製作途中の玦状耳飾

製作途中の玦状耳飾

孔を開けることによって摩耗したドリル(錐)の先端

孔を開けることによって摩耗したドリル(錐)の先端

孔の開け方のいろいろ

孔の開け方のいろいろ

装身具〜装身具を作った人がいた〜

製作工程のわかる資料が何よりその証拠と裏付けます。孔をあけるドリルもあります。
おしゃれにも気を使うようになった前期の時代、装身具も発達しました。阿久遺跡でも玦状耳飾・管玉・小玉などの多くの装身具が発見されています。その材料は、軟玉ともいわれる滑石で、美しい色をしています。しかも、ここで作られていたことも明らかです。そもそもこの石の産地が、ごく近くの茅野市金沢の蝋石山にあるのです。そこから原石を持ち運び、ここで製品に仕上げていたことが、多くの製作途中の資料の存在からわかります。加工技術者がここにいました。
また、毛皮や木などに孔を開けるための道具に、多くは黒曜石でできた、ドリル(錐)があります。中に、先端が堅いものを開けたように、きれいな円形に摩耗痕を持つものがあります。玦状耳飾や小玉の中央の孔をあけた痕跡です。
管玉のような長いものの孔はどうしたのでしょう。鳥管骨(竹のように中が空洞となっています)を使って開けたのではないかと考えられています。

文化の交流

多くの人々が、この山岳地帯にやって来たことに触れましたが、移住までとはならなくとも、非常に広域な行き来やネットワークの存在がありました。電車や自動車のない時代であるのに、驚きとしか言いようがありません。具体的な往来を示す、黒曜石と土器についてみてみましょう。

黒曜石の流通

阿久遺跡と黒曜石の原産地(山科哲 2009)

阿久遺跡と黒曜石の原産地(山科哲 2009)

割ると、ガラスのように鋭い刃となる黒曜石です。道具の素材としては誠にありがたい、縄文人にとっては、まさに「宝の石」となっていました。その石は、列島内のどこでも採れる、というわけではありません。限られた産出地の最大が、信州のこの地にありました。旧石器時代の昔から、人々は山国信州に、黒曜石を求めてやってきました。
その麓にある遺跡では、黒曜石の採掘にかかわり、原石とともに製品に加工してはそれがほうぼうにわたっていったことも明らかです。青森県三内丸山遺跡や、さらに津軽海峡を挟んだ北海道館崎遺跡からまで、650kmも移動していることが知られています。
さて、縄文時代早期にはまだ遺跡の数は少なく、ムラの規模も非常に小さく、たしかに石鏃には使われてはいるものの、そのムラ単位の消費がせいぜいで、流通にかかわるようなものではありません。やがて阿久の時代になって爆発的に多くなり、これは自分たちの消費をはるかに超えるものといわれる状況となりました。
流通にかかわる、複雑な社会システムが出来たことも想像できます。

こうした製品もさる事ながら、この時期には住居内やムラの一角に、黒曜石の原石を幾つかまとめた場所もありました。黒曜石集石、或いはデポなどと呼ばれています。これはまさに、黒曜石の流通を示す資料といわれているのです。阿久遺跡では住居に、そして住居外に、1か所づつ、確実なデポ(集石)として発見されているのです。

諏訪地方の黒曜石を信州産黒曜石といいますが、この地域には細かくは15か所ほどの原産地があるのです。ではそのどこの黒曜石を持ってきたのか。現在、科学的は手法でその産地を知ることができるのです。残念ながら阿久遺跡の黒曜石はまだ分析されていませんが、同じ時代の茅野市・駒形遺跡の分析では、その大半が霧ケ峰星ケ台産だということがわかっています。恐らく阿久遺跡でも、そこから多量の黒曜石が運ばれて、せっせと石器つくりが行われました。そして遠くの地まで運ばれました。さぞかし喜ばれたことでしょう。
もちろん同時に、彼の地の貴重な品と交換されて、お互いの地の生活が潤う姿が想像できます。

異国の地からやって来た土器

土器

多くの地と交流のあったことを、土器も教えてくれます。
土器の形や文様は、地域や時代によって変化して、それがいつどこで作られたものかを教えてくれます。
近畿地方を中心とする関西系土器に、羽島下層式土器→北白川下層式土器があります。胎土は薄く堅く、二枚貝を用いた器面の調整を特徴として、文様は爪形文を多く用いて縄文もそこに加わり、一見して区別できる土器です。
関東直送の土器もあります。関山式土器の例をあげます。非常に多様な縄文を多用して、口縁部には小さな瘤をたくさんつけることを特徴とします。右は阿久遺跡の土器、左は、さいたま市の貝崎貝塚の土器です。瓜二つです。
この中にそれぞれの地域の特産品を詰め込んで、遠路はるばるこの地にやって来たのでしょうか。あこがれの地を目指して、山へ山へと、当時の人々の姿が浮かびます。

関西系

関西系土器1
関西系土器2
関西系土器3

関東系

関東系土器1

さいたま市貝崎貝塚出土の土器
©さいたま市立博物館

関東系土器2

阿久遺跡出土の土器

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