その時代、どんな、ムラの姿だったか?
自然環境の変化と人の動き
そして祈りや祭祀の出現
早期
鬼界カルデラが噴火
西日本に住みにくくなった
人の大移動
鬼界カルデラの大噴火
鬼界カルデラの大噴火は、約7300年前の縄文時代早期の終わりの頃でした。九州や四国での被害の様子は触れましたが、東海地方までも大変でした。
知多半島にある清水ノ上貝塚では、25~35cmものアカホヤ火山灰が確認されます。その生態環境への影響は、生業活動に現れました。降灰の影響は、特に陸上の動植物に深刻な打撃となったようです。降灰以前には多かった石鏃が降灰以降には激減し、代わって漁労の錘が激増したというのです。狩猟対象の獣の、壊滅的状況を物語ります。縄文時代前期初頭の静岡県沼津市の平沼吹上遺跡では、早期の石器組成では半数を占めていた石鏃の割合が、なんと2,1%にまで落ち込んでしまったというのです。だからといって海洋生物も以前のようなわけにはゆきません。たとえばハイガイの明らかな生育不良や、それにともなう貝塚自体の消滅も確認されているのです。
こうしたことで、特に東海以西の縄文人の多くはその地を離れざるを得なくなったという、いわば「縄文時代史上最悪のイベント」がこの時起こったと考えられます。
移動のピークは阿久Ⅱ期。この時、それまで極めて小規模なムラしかできなかったこの山岳地帯に、阿久Ⅱ期(中越式期)といわれるこの時期に、突然、大きなムラが現れるのです。「それこそ「忽然と」大集落が現れたような衝撃」とは、この状況を知った、ある研究者の驚きです。自然の増加では説明しにくい、急激な人口増加の背景ではないかと思われます。
阿久Ⅰ期7000年前
人が住み始めて、”ムラ”ができる
阿久Ⅰ期は、調査区西側に1軒の住居跡。阿久ムラの始まりです。
ムラの始まり(Ⅰ期)
- 住居1軒
阿久Ⅱ期
空白期間
茅野断層による大地震が起きて、散々になる
Ⅱ期の終わりころ、阿久遺跡にも確認されましたが、すぐ西にある31軒の住居をもつ阿久尻遺跡に、より大規模に大地震(6500年~6300年前)の痕跡が確認されているのです。この場所が住める状況ではなくなって、このあとムラが放棄された可能性をうかがわせます。縄文人は天の祟りと、きっと強い恐怖を抱いたでしょう。以後、祈りにすがる祭祀の活発化にもうなずけますね。
阿久Ⅲ期
阿久Ⅳ期
阿久Ⅴ期
祭祀に特化したムラとなり、祭の際には周辺のムラから人々が集まるように
大規模な祭祀場の造営が始まる
住居数は2軒と激減し、そのうち1軒は阿久ムラ最大規模(9x7.8m)です。しかもこの住居は、立石から蓼科山方向の直線上に位置していました。一般的な住居というよりも、集会など非日常的な用途の可能性を強くします。
集石や土坑も作り続けられていました。このことは、別の場所に生活の拠点を移して、この場所は「祭祀行為に特化=共同の祭祀場」となったことを意味するように考えられます。
祭祀に特化?(Ⅴ期)
- 住居2軒
- 土坑30基
- 方形柱穴列2基
- 立石・列石
- 環状集石群