☑️八ヶ岳に抱かれた自然豊かな原村
☑️セルリーは日本一の生産量
☑️開拓に苦労した先祖のお話
はじめまして!八ヶ岳の麓、標高およそ1000mの原村で、メロンより甘い『八ヶ岳生とうもろこし』をつくっている折井祐介です。
今回は、私が生まれ育った原村をご紹介します。
〈日本一の生産を誇るセルリー〉
皆さん『原村』って聞くとどんなイメージがありますか?
八ヶ岳山麓の広大な土地で、日本一の出荷量を誇るセルリーなど様々な高原野菜を生産しているので、やっぱり農業のイメージが強いんじゃないでしょうか?
6月の原村は車の窓を開けて走ると、セルリー畑からハーブの様な独特な香りがします。そんな地域はなかなか無いんじゃないでしょうか。この独特な香りの成分(アピイン)はポリフェノールの一種で、精神を静めてリラックスさせる効果があると言われています。是非とも、原村で癒されて欲しいです。
原村の子供たちは、この広々した環境で伸び伸びと育つので、若いころは都会に憧れても、結局は都会暮らしに息苦しくなって原村に戻って来るのが大半なんです。なんだかんだ言って地元愛ですね~。
〈開拓に苦労した先祖〉
今でこそ自然の恵みをいっぱい受けて、高原野菜の生産地になっている原村ですが、開拓時は相当苦労したようです。
今から約400前、当時の高島城城主『諏訪頼水』の命で原村の前身となる『原山新田』の開拓が始まりました。八ヶ岳山麓の広大な土地に一大農業生産地を開拓することは、きっと諏訪地域の食料を確保する意味でも重要なミッションだったんでしょうね。
そして、いよいよ人々が集まりだし「さあがんばるぞー!」と始まった開拓事業でしたが、想像していたよりずっと厳しい環境に耐えられず、2年程度で逃げ去る者も多数いたそうです。
そんな過酷な状況を見かねた諏訪の殿様は、原山新田の入植者には「年貢を一定期間納めなくてもいいよー!」と特例を出したほどでした。
その後も原山新田の開拓は難航を極め、農作物がまともに育ち収穫できるまでには相当な労力と年数を要しました。原村がそんなに酷い土地だったとは今からはとても考えられませんね。
つまり、今ある原村の恵まれた環境は元々あったものではなく、この地に入植した私たちの先祖が血の滲む努力で開拓し代々引き継いできたものでした。
今思えば、亡き祖父母も土地に対しては異常なまでの執着心があり「土地は先祖から受け継いだものだから簡単に売り渡すな!」が口癖でした。
〈折井の名前の由来は?〉
ちなみに私の苗字『折井』は全国的にもかなり少なく、原村にも5軒ほどしかありません。
古くはお隣の山梨県武川周辺から発生し、武田信玄の北信遠征の際に従軍したことから、富士見町~原村~諏訪~松本あたりに少しずつ定着したと言われています。ちなみに、松本市の白板地区には折井町という場所があります。
そんなこんなで話は戻りますが、私たちの作る『八ヶ岳生とうもろこし』は、八ヶ岳高原の恵まれた土壌、豊富な日照時間、昼夜の寒暖差、そして先祖たちの不屈のパイオニア精神という土台があってこそ生み出されている商品だったわけですね。
さて、難しい話になってしまったが「今年も甘~いトウモロコシにな~れ!!」
おしまい。
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