☑️『鷺乃湯』と『布半』のマッチラベルに書いてある電話番号が一緒だよ!!なんで?
☑️赤いラベルの鷺の絵は、原田泰治氏の若き頃の図案なんだって!
☑️『鷺乃湯』は、諏訪大社上社の近くにもあった!?
〈何で違うホテルなのに、電話番号が同じなんだ?〉
さて、創業明治初期という『鷺乃湯』も『布半』も諏訪を代表する老舗のホテルである。
双方ともに百年以上の歴史を持っている。そのマッチのラベルに記載されている電話番号を見ていて、気づいたことはありますか?
そ・う・なんです。両方に「481・482」という番号が書かれているのです。誤植でもないだろうから何か理由があるはずだ。どういう事だろうと、双方の歴史を調べてみた。
すると『ホテル鷺乃湯 代表取締役 伊東克幸さん』から丁寧なメールをいただいた。
それによると、戦時中は同じく老舗の『布半』と共に海軍病院として利用されていた事もあり、戦後になり『布半』と共に諏訪観光ホテルとして営業を再開。昭和26年にはそれぞれに独立し、27年に国際観光旅館連盟へ参加となったようです。
どうもその頃に作られたマッチなので、同じ電話番号は、どちらをお客様が選んでも良いようにというのではないでしょうか。現在の『鷺乃湯』の電話番号が0266-52-0480である事を考えると、『鷺乃湯』の480と『布半』の30は、例えば厨房や事務所などフロントではないところの番号だったのではないだろうか。大変面白い結果だった。
ちなみに、『鷺乃湯』も『布半』も、岡谷の製紙業の繁栄がそのまま旅館業に影響を及ぼしている様である。『鷺乃湯』は、明治38年頃『一銭湯』の入浴施設を作ったのが始まりとされます。
大正に入ると、岡谷の製糸業で働いている人々が通うようになり、置屋なども出来て花街として大変にぎわったそうです。昔は温泉に含まれる大量の硫黄によって、浴槽に白くそれが付着した為、その形が鳥の羽のようだったから『鷺乃湯』と呼ばれたようです。
〈『鷺乃湯』マッチのラベルの鷺の絵は、原田泰治さんの絵だった〉
そうしたことを背景に、赤と緑の『鷺乃湯』の2枚のマッチのラベルを比べてみました。
終戦後すぐ隣にある『布半』と『鷺乃湯』が合併して【鷺乃湯諏訪観光ホテル】になったということなので、【SUWA KANKO HOTEL】の文字を見る限り、緑色のマッチラベルが、終戦後すぐの物でしょう。ということは、昭和21年以降の物という事になります。
そして、赤のマッチには、国際観光旅館の文字があるので、昭和27年以降に作られたものと推測されたのだが・・・。現在のご当主に連絡を取りお聞きしたところ、「昭和23年の国際観光旅館連盟の設立と同時に加盟したので、それ以降の昭和30年代の頃かと思われます」という事実も判明しました。
尚、「マッチの鷺のマークは現在ご活躍されている【原田泰治】氏の若き頃の図案です」という連絡もいただき、感謝と同時に驚くばかりです!!なんと、あの鷺の絵が原田泰治さんの図案だったなんて、さすがは老舗旅館だ!
『布半』にも、ラベルの画像をお送りし問い合わせてみたのですが、残念ながら詳しい人がいないという事で、若干消化不良ではありましたが、一応良しとしました。そこで『布半』のもう一枚あるマッチのラベルから、推測してみる事にしました。
薄紫の方は、電話番号を見ると1630-2となっている事と、『布半別荘』との記載から、昭和26年に再度独立してから作ったものと考えられます。諏訪湖畔に建てられた『布半』の別館が、『布半別荘』といい、ここが現在の『布半』となったという事からの推測です。
諏訪で180年以上の歴史ある二つの旅館が、戦争を経て一度は合併し、また分かれて歴史を刻んだことが、このラベルからわかってきたというのも大変興味深い事でありました。それにしても、戦争に負けた後すぐにローマ字で宣伝物を作るという、諏訪人の機に長けた順応性には驚かされます。もっとも、それが諏訪人気質なのだろうとも思います。父も戦後中州青年団で、英語を教えたりしていたようですから、納得ですね。
〈宮ノ脇にあったという『鷺乃湯』の写真があった!〉
さて、最後はこの写真。ここには、父とその友人が写っています。
写真のコメントには【昭和17年12月30日神宮寺宮ノ脇『鷺乃湯』楼上に中学時代を共にせし、盟友集い一夜を楽しむ】とあります。この場所について鷺乃湯の社長にお聞きしたところ、「宮ノ脇とは諏訪大社上社付近の事を指し、そこに湖畔の本店の【別館】として鷺乃湯があったようです。大正から戦前までの営業で、詳しい年代や場所についてはわからない」との事でした。逆に良い資料をいただいたと感謝されてしまいました。
ところが、最近手にした【語り継ぎ神宮寺の民俗】という本の中に、その場所が書かれていたので驚きました。こちらも調査の結果であるので、書き記ししておきます。
その本は上下巻あり、発行は昭和60年とあります。そしてその発行には、現在、諏訪信仰案内人の谷澤晴一さんの名前も記されています。その不思議な縁にも驚いた次第です。
さて、そこには【現在大熊に銭湯は『宮ノ湯』一軒しかないが、昭和15年までは宮ノ脇側に『宮本館』という銭湯があった。それ以前には『蟹の湯』という銭湯もあった】と書かれていました。どうも、湯口が使えなくなった『宮本館』を『鷺乃湯』が買い取り、新しい井戸を掘ったようです。そして、新しい湯口を掘り当て営業したのが、父が行っていたという『宮ノ脇・鷺乃湯』という事が判明しました。
違うホテルのマッチのラベルの電話番号が同じ事に気づいてしまった事に端を発して、ついに当事者が知らないことにまで行きついた今回の調査でした。父の行っていた写真との関連性も調べられたし、調査に時間がかかり投稿が遅くなってしまったけれど、有意義な時間でした。
諏訪っていう所は、なんて不思議な事が詰まっているのだろうか。この場所にもっと住んでいればよかったと思い、また何か引っ張り出していこうと思った「タイムとラベラー 守矢」でした。
(2020.6)
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歴史
ライター紹介 守矢正1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。 |