☑️『アーティスト泉』として活躍したフードファイターが、諏訪にいた!
☑️フードファイター時代は、食べては吐くという摂食障害だった!
☑️プロミュージシャン、フードファイター、ヒモ、出家…波乱万丈の人生を描く!
『全日本わんこそば選手権』で三連覇したフードファイター泉拓人(アーティスト泉)。
大食いするとは到底思えない痩せ細った体に、パンク系の服を身にまとい「天と繋がる」「もっと自由でいいんじゃないの」などの過激な発言でお茶の間を賑わした。
しかし2008年、突如として表舞台から消え去った。巷では死亡説まで流れたのである。
泉拓人が現在なにをやっているのか? 今までどんな人生を歩んできたのか?
そこには、知られざる泉拓人の葛藤に満ちた人生があった!
探偵のだオバさん(僕)が追求していく。
泉拓人との出会いは意外な場所だった!
僕が東京から長野県茅野市に移住したのは2017年1月。
地域おこし協力隊員として地域活動していると、色々な人の噂が入ってくる。その中でも異彩を放っていた人物がいた。
「面白い人がいる。伝説のフードファイター泉拓人で、プロミュージシャンだよ」と。
ミュージシャン? フードファイター? 心に引っ掛かった。
僕は東京で20数年に渡ってバラエティ番組をつくっているが、大食い番組とは縁がなかった。ジャイアント白田やギャル曽根くらいは知っている、という程度。もしも僕が食べ放題の飲食店を経営していたら「あんな人たちが来たら、大赤字になっちゃう」と想像上で勝手に怯えていた。
フードファイター泉拓人は知らなかったが…番組制作者として惹かれるものがあった。
「最高でどれだけ食べたんだろう?」
「同じ人間として、体はどうなっているんだろう?」
「ちょっとずつしか出ない料亭に行ったら、キレるんじゃないか?」
「やっぱりウ●コも大きいんだろうか?」
など聞きたいことだらけ。
そんな興味に駆られていたら、意外な形で出会うことになる。それは…
『諏訪圏青年会議所』が主催する講演会。
まちづくり委員会をしていた泉拓人は、なぜか偉い先生が講演する前の前説をしていた。
聴衆の気持ちをあたためるためなのか?
その日の地域づくりテーマに合わせて、コントをやっていたのである。
3分ほどの短い余興であったが…毎回、これでもか! というほどスベっていた(笑)
しかし泉拓人は、失笑するお客さんを前にいつも満面の笑みだったのである。
僕は仕事上、スベって落ち込んで帰る芸人をたくさん見てきた。それほど『スベる』というのは心にダメージを受ける。しかし、泉拓人は笑顔だった。
心臓が強いのか?
キラキラした澄んだ目を見て、より一層興味が湧いてきた。
泉拓人が出家した!?
そんなある日、驚くべき情報が飛び込んできた!
「泉拓人が出家した!」と。
出川哲朗流にいうと「なんじゃそりゃそりゃ!」である。
『プロミュージシャン➡︎フードファイター➡︎お坊さん』って本が書けるわ!と思っていたら…僕のところに「YouTube動画をつくりたいのでアドバイスして欲しい」という話が舞い込んできた。次はユーチューバーか…
打ち合わせでは、波乱に満ちた人生を聴かせてもらった。「うーん…」と唸ることばかり。やはり『人に歴史あり』である。
僕は話を聴きながら、いつかは文字に残したいと思っていた。泉拓人の人生を垣間見ることで、心が楽になる人がいるのではないかと。というのも、僕はこう見えて心理カウンセラーの真似事もさせていただいているので、余計にそう思ったのだった。
今回はその機会を得た。それでは、その一部始終をご紹介したい!
母の死…そしてプロのミュージシャンへ
泉拓人(本名:坂本賢吾)は、1978年3月19日に長野県諏訪郡富士見町に生まれた。とにかく好奇心が旺盛で、何にでも飛び込んでみるという活発な子どもだった。小学校で生徒会長、中学校では生徒会副会長やサッカー部部長を務めた。
しかし、中学2年で事態は急変する。
大好きだった母親が病気になったのである。それも治らないという病に…
病名は白血病。
ある日、父親から伝えられた。
「いつ死んでもおかしくない」と…
お見舞いに行くと母親は、弱音を吐くことなく必ず笑顔で接してくれた。
「家に帰ったら、賢吾の好きなカレーを作りたい」「今度はいつ家に帰れるかな?」と常に子どもたちを気遣った。
賢吾さんは、当時の気持ちをこう語る。
「意識が薄れていって…それからは、ずっとその感覚で生きてきました」
高校に入り、ロックバンド『X JAPAN』に憧れバンドを組んだ。大好きだったhideと同じギターだった。
いずれ訪れるであろう『母親の死』という現実を見ないよう、バンドに明け暮れていた。ギターに熱中している間だけは、全てから解放された。
そして高校1年の夏、一番訪れて欲しくない瞬間がやってきた。
文化祭の前日、母親は他界した…
賢吾さんは、泣かなかった…いや、泣けなかった。
『母親の死』に対して向き合う覚悟がなく、現実を受け入れることを拒んでいた。それほど大好きなお母さんだったから。そして「泣いたら、お母さんが困る」とも思っていた。
賢吾さんは現実と向き合わぬよう、再びバンドに打ち込んだ。
皮肉にも、母親を忘れるために熱中したギターが、プロミュージシャンへの道に繋がることになった。
デビューライブは動員記録を更新!
高校卒業後、「もう長野には帰らない」と告げ家を出た。
とにかく有名になりたかった。周りに認められたかった。それが「自分が生きている価値、存在理由」だと信じ切っていた。
厳格だった父親は母親の死後、性格が180度変わり「いつ人は死ぬか分からない。好きなように生きて欲しい」と送り出してくれた。
上京して、音楽の専門学校に入るも中退。バイトをしながらバンド活動を続けた。
ご縁あって憧れの『X J A P A N』YOSHIKI が設立した音楽事務所と関わることになる。所属アーティストのローディー(お手伝い)になり、初めてプロの空気感や人生を感じた。
そんな中、後にヴィジュアル系の最大手事務所になる『P Sカンパニー』尾崎友美さんから「所属アーティストにならないか?」という話がきた。
賢吾さんに、プロミュージシャンの道が拓かれた!
ヴィジュアル系ロックバンド『Dué le quartz(デュー・ル・クォーツ)』の誕生である。
デビューライブは『渋谷サイクロン』というライブハウス。300名を超すお客さんで埋め尽くされた。ライブハウスの動員記録を更新する人気ぶりだった。
そんな賢吾さんが日々磨いたのは、ギターのテクニックと“容姿”。
「太りたくない!カッコいい自分じゃないと人前に出られない!」と、細く美しい体にこだわった。納得する体型は身長168cm体重52キロ。常にカロリー計算をしていた。風邪を引いても薬のカロリーさえ気にするほどの異常ぶりだった。
賢吾さんは当時をこう振り返る。
「とにかく認められたかった。承認欲求が強すぎたんだと思います」
それにしても、美形でロックミュージシャン…相当モテたという。そんなお話は後半で!
人気絶頂からバンド脱退へ
ロックバンドは好調な滑り出しだった。そのまま一気に昇りつめるかと思われたが…半年も経つとバンド内の関係がギクシャクし始めた。
賢吾さんは「メンバーに比べ、音楽センス、技術がなんとなく負けている」と感じ始めていた。こんな自分は嫌だと、隣から苦情が来るくらいひたすら練習をした。しかし、徐々にメンバーへ気後れする気持ちが大きくなっていった。
そして、正直に気持ちの分かち合いも出来ないまま、賢吾さんは脱退を選んだ。「自分が劣っている」という状況を、プライドがどうしても許せなかったのだ。
賢吾さんのヴィジュアル系ロックバンド『Dué le quartz(デュー・ル・クォーツ)』は、約2年で幕を閉じた。
ちなみに世界で活躍しているサムライ・ギタリストMIYAVIは『Dué le quartz』のメンバーだった。賢吾さん脱退後に加入している。
賢吾さんは「自分が未熟だった」と当時を振り返る。メンバー同士が楽しく話していても話の輪に入れず「常に孤独だった、うまく馴染めていなかった」という。
記憶を辿れば、学生時代にも同じような感覚があった。
中学時代の担任が「坂本は、何か気を使っているように見えるぞ」と言った言葉が全てだった。
『人を疑う、気持ちを探る、気を使う、距離を置く、言葉を選ぶ、駆け引きをする』
根底にはいつも生きづらさがあった。
そして幼少期から感じていたこと。「僕が生まれた理由は何なのか? 命はどこから来たのか?」答えが出ぬまま葛藤は続いていく。
次回は、賢吾さんが食べては吐く『摂食障害』になった話、ヒモ生活、そして帰郷して出家するまでを書いていきたい。
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のだオバさん。放送作家。夢で「諏訪大社に行け!」と言われたのを真に受け、長野県茅野市に移住^_^余所者の目線を通して、諏訪・八ヶ岳エリアの魅力を発信!花好きから「あいつオジさんのくせに、オバさんっぽいな」と言われ『のだオバさん』に…。天然の妻・フリーアナウンサー谷岡恵里子は相当ヤバい(笑) |