☑️武田信玄の隠し源泉だった『宮乃湯』のマッチラベルを発見!!
☑️薬効のある鉱泉なのに、なぜ『毒沢(どくさわ)温泉』なんて名前をつけたんだ?
☑️ラベルを書いた武田謙吉さんてどんな人?
次の題材を物色している時、見つけたマッチのラベルはちょっと変わったデザインの物だった。
今まで見てきた色合いとは違い、色は黒と赤と銀のみ。全体に暗い印象・・・。
しかも、『毒沢鉱泉』とある。薬効をうたう鉱泉なのに、何故に『毒(どく)』なのかも興味がわく。お宮の近くだから、宮乃湯ってつけるんだろうな・・。
<なぜ『毒』なのか!?>
とりあえず、ネットで宮乃湯を調べると、案内には【大正12年創業、自然と緑に囲まれた閑静素朴な宿として、信玄の隠し源泉伝説を守り続け、その神秘的な薬効は飲用浴用にと、効能疲労回復は抜群。(中略)加えて、旅は心、毒沢鉱泉に堪能され、予期せぬ館内展示の沢山の絵画との出会いにまた堪能され、感動と讃辞を沢山お寄せいただいて居ります。(館内にある絵画は、当館出身の天才的画家 故武田謙吉の遺品でございます)】と書かれていた。
天才画家というのも気になるが、まずは毒沢の由来を先に調べてみた。
飲泉したこともある『諏訪旅』ライター のだオバさんによると、「すごく酸っぱく、そして鉄の錆を飲まされているような感じ。正直…不味いです」とのこと。一部の温泉マニアには親しみを込めて『日本一不味い温泉』と評されている。
毒沢温泉の名前とは対照的で「病後の回復や疲労回復や神経痛、筋肉痛、運動麻痺などにいい温泉」だというのだが、無理してたくさん飲むのは禁物だそうだ。 “良薬口に苦し”ということわざがあまりにもぴったりな温泉である。
『毒沢』には、こんな逸話もあった。戦国時代、傷病兵を連れた信玄一行がとある温泉を見つけ、その温泉水を傷につけたところ、みるみるうちに傷が回復したという。それに驚いた信玄は「この水の事は誰にも教えてはいかん。『毒』と名付けて、遠ざけよう」と思い、それ以降、この湯は『信玄の隠し湯』として、毒沢の名のもと成り立つという。
人に使わせない為に、人を遠ざけるために毒の沢と付けたのか・・。それにしても、ここに至っての信玄か・・縁という物はあるものだな。
<ラベルを描いた武田謙吉とは?>
では気を取り直して、ラベルの調査を開始しよう。
宮乃湯さんには、直接電話をかけた。おかみさんが出られて、「そういえば、昔マッチ箱にラベルを張った覚えがある。すごく地味な柄だった」という思い出を聞いた。「確かに地味と言えば地味ですが、凝った図柄だと思いますよ」などというやり取りをした後、プリントアウトしたラベルをお送りした。すると、10日ほどたったある日封書が送られてきて、そこには「版画風のラベルに変わったのが、1974年位なのでそれ以前の物になると思います」「マッチの図柄ですが、主人の弟が武田謙吉といい画家でした。その謙吉の描いたものをラベルにしたのではないか」などと書かれていた。
そして、謙吉さんは諏訪清陵高校のご出身だとか。そこにも不思議な縁を感じた。集めていた時期から考えると、やはり僕らが東京へ出てくる前で昭和20年前後という所だろうか。
最後に、武田謙吉さんについて調べてみた。実際に宿に行けば作品を見る事が出来るのだが、なにぶん動けないのがもどかしい(写真は、のだオバさんが撮影)。
武田謙吉さんは才能を高く評価され、アメリカの富豪から絵の勉強をしにアメリカに来なさいと言われていたにもかかわらず、30歳にも満たぬうちに亡くなったそうだ。「芸術の秋に悲し青年画家。留学の夢もはかなく、渡米前に過労にてこの世を去る」という新聞の表題が悲しく眼を射る。落ち着いた色使いで深みがあり・悲しみを湛えている表情が何とも言えない絵を描く方のようですが、残念な事だ。
<最後に>
今回は、一風変わったデザインのラベルが目に留まった事に端を発した。マッチという小さな宣伝物で、いかに人に訴えるのかに才能を傾注させている人の情熱を感じた。まだまだ見ていてデザイン的にも良いな・・という物がある。確かに、宣伝媒体としてのラベルが命を持っている。
鷺乃湯にしろ宮乃湯にしろ、諏訪という所は芸術家が集まってきたり、育ったりする場所なんだろうか。そういえば我が家にも芸術家がうようよといた。中村不折・金井烏洲・河東碧梧桐・中塚一碧楼・林芒斎ら画家や俳人が、我が家によく集まったようである。なぜ僕に才能がないのだろうか?と落ち込むが、こうしていろいろ調べて書くことが僕の才能と納得するほかはない。
毒沢温泉 旅館 宮乃湯
http://miyanoyu.com/
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ライター紹介 守矢正1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。 |