☑️ 諏訪大社の神職「大政所(おおまんどころ)職」とは?
☑️ なぜ上社を離れた我が家が、「鹿食免(かじきめん)」の版木を持っていたのか?
☑️ 「鹿乙(しかおと)」の役目とは、何だったのか?
前回、我が家の持つ歴史を書かせていただいた。
守矢家は諏訪大社上社の神事を司った神長官の唯一の分家であり、大政所(おおまんどころ)として「鹿食免(かじきめん)」を発行する要職を務めていた。
(前回の記事はこちら)
今回は、大政所職とはなんだったのか? を考えていきたい。
「大政所職」とは、諏訪大社上社の年中行事などを実施するために必要な経費を集めるという上社の神職「行事・政所(まへどころ)」に、神饌幣帛を司る役目を加えたものと推測される。おそらく1532年頃にできたと考えられる。
本来上社で大祝家(※)が発行するはずの「鹿食免 諏方大祝」の版木が我が家にあったという事については、こう考えている。
当時は神長官・権祝・禰宜太夫などの社家に限られるが、それぞれが「鹿食免」を発行する特権を持っており、その家の大きな収入になっていたという事が関係しているのだろう。大祝の「鹿食免 諏方大祝」は、上社の「大政所職」がその発行の任にあたっていたと考える。
※ 大祝(おおほうり)とは、諏訪明神の依り代・現人神として、諏訪社の頂点に位置した神職である。上社大祝は古代から近世末に至るまで世襲され、「諏方氏」を名乗った。
「大政所職」がなくなり、上社で「鹿食免 諏方大祝」が発行できなくなると、大祝家の収入が激減する事になる。そこで、やむなくその発行を「大政所職」だった我が家に代行させたのではないだろうか。
つまり「鹿食免」の発行をさせることで大祝家の収入を守り、神饌の鹿や猪の肉の納入と甲州一帯への鹿肉の販売を任せることで、我が家にも益があるようにしたのではないだろうか。だから版木が我が家の蔵にあったのだと考える。
諏訪近郊だけではなく甲州一帯への鹿肉の納入に関しては、たまたま発見した帳簿の一部がある。父が読んだものも、一緒にご覧いただければと思う。
鹿乙(しかおと)とは何だったのか?
さて「鹿乙(しかおと)」とは、神事に必要な鹿の肉を上社や甲州一帯に一手に下ろすことを生業にして、「鹿音(乙)茶屋」という屋号で鹿肉料理屋・旅籠を代々やっていた当主・弥平治の呼び名である。
『中洲村史』に「辻の西側に鹿音(しかおと)という茶屋があった。鹿肉料理専門で知られていた。」と書いてあったり、江戸時代末期の地図として、我が家を「しかおと」と書いてあるものを『語り継ぎ神宮寺の民俗』の中に発見したりもした。
3階建てであったということも分かっているが、手元には2階建ての間取り図しかない。
「鹿乙 弥平治」は鹿肉を扱う傍ら自ら銃を持ち、猟師として山々を歩き・鹿を狩ることもしていたようだ。
蔵には手槍や火縄銃・短く切られた錫杖や兎の皮・鹿の皮などが残されていたからだ。
さて、諏訪大社として発行する「鹿食免」のお札を各地に届けたのは、諏訪神人という御師達であったと考えられる。
この人達は山村を巡っては、辻や信者の家に人々を集め諏訪神社の縁起物語『甲賀三郎伝説』を語り、最後に呪文「諏訪の勘文」を唱導して「鹿食免」の札や「鹿食箸」を配ったという。この御師達への補給をやっていたのが、「鹿乙」である我が家ではないだろうかと考えている。
「鹿食免」の版木は我が家にあったから、その補給もできたはずである。伊那との交通の要所である杖突峠への街道の入り口「峠入口」で茶屋をやっていたというのにも、意味があったのではないかと考えている。
そこに居を構えたのは、たまたまであったが、上社本宮参りをするときの宿屋として、皆が利用するのに便利であったに違いない。
すべて推測の域は出ないが、短く切られた錫杖は、「鹿乙」が時に辻説法をした名残ではないだろうか。山河をかけ・全国を渡り歩いて諏方大祝の「鹿食免」と諏訪信仰を広める人々を束ねていたのが、「鹿乙」であったに違いないと思えてくるのである。
そして、もし男巫の神長と一緒に山々を駆け巡っていたとしたら、それは結構痛快な話だなと思うのである。
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ライター紹介 守矢正1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。 |