セピア色の記憶
我が家「守矢家」の記憶 屋敷神【鹿乙明神】3

☑️我が家の屋敷神は、鹿乙(しかおと)明神という。
☑️鹿乙明神が祀られている場所は、諏訪市天然記念物樹齢500年のイチイの木の根元。
☑️鹿乙明神とは、千鹿頭(ちかとう)神の事なのかもしれない。

この鹿乙明神の記事で、我が家のたどった道の考察を最後としたい。
我が家は諏訪大社上社の神事を司った神長官の唯一の分家であり、諏訪の祭祀に関わる「大政所(おおまんどころ)職」として《鹿食免(かじきめん)》を発行する要職を務めていた。
※《鹿食免》についての詳細記事はこちら。

「大政所職」が廃止されてからは、「鹿乙(しかおと)」として神饌の鹿肉を上社に卸すなど祭祀に関わり続けた。というのが、前回までの話であった。
※《鹿乙》についての詳細記事はこちら。

<我が家の屋敷神「鹿乙明神」>

今回、我が家の屋敷神(祭神)鹿乙明神の事をお話して、最後とすることにした。屋敷神というのは、屋敷およびその土地を守護する神で、屋敷の裏や敷地に付属した土地、もしくはやや離れた山林などに祀られることが多いという。家との関わりが深い神だが、屋敷の中には祀られないのだ。特に祖先神との深い繋がりがあると言われているようだ。

明治後半頃の我が家

我が家の屋敷神が「鹿乙明神」であるという事については信陽新聞の「龍門紀伝」という物の中に、【守矢氏の屋敷神を鹿乙明神と呼べるが、その祭神をつまびらかにせざれど、そのお贄の鹿に関係あるは遂行するに難しからず。鎌倉時代の諷物(うたいもの)『諸神勧進段』中にも所載あれば、その由緒の深きを証すべき】と記載されている事で、明白である。
鹿乙明神の祠は、写真があるのでご覧いただきたい。イチイの古木の根元に祀られているのが、そうである。

左が屋敷神・鹿乙明神、右が天狗の祠。1962年御柱の年の写真である。

祀られている場所は天狗山の麓であるが、今は藤森茶室群の先・右手の小高い森の中という方が分かり易い。

こちらは建築家、藤森照信氏が自分の家の畑に造った茶室である。

空飛ぶ泥舟(四本のはしご状のものに、ワイアーで吊られている)

高過庵(先が二股に分かれた二本の木で支えられている)

低過庵(屋根がスライドする)

三つが並んで建てられている。
この藤森茶室群を左に見ながら坂を上がっていくと赤凪橋に出る。

右に川、左に墓地の間の細い道を少し上に上がった所に馬頭観世音の石碑をのせた大岩がある。

大岩の上に、馬頭観世音の文字の彫られた石碑

大岩の場所から右の山の上の方に鳥居がある。

よく見ると中央と右下に鳥居がある。

そこが、諏訪市指定の天然記念物樹齢500年のイチイの木と祠のある場所である。

左が屋敷神・鹿乙明神、隣には天狗山の名の由来となった、「天狗の祠」もある。

天狗の祠は1962年には木だったが、いまは石の祠になっている。

天狗山のイチイの説明書

同じところには、岩波牧が屋敷神とする「天白社」の祠も樹齢300年のトチの木を背にしてあるのだが、そこに行く観光客を見たことはない。ほとんどの人が、知らないからに他ならない。

手前が岩波牧の屋敷神「天白神」、後ろに見えるのが「鹿乙明神」

ここは、本来であれば諏訪信仰にとってすごい場所であると思うのだが、前述の通りほとんど訪ねる人もなく、ひっそりとたたずんでいる。「天白」の事なら聞いた事もあるだろうが、「鹿乙明神」なるものを知っている人が、何人いるだろうか。それがとても残念である。諏訪の祭祀を支えて上社に関わって来た我が家の屋敷神の事を、あわよくばこの機会に少しでも知ってもらえればと思っている。

<鹿乙明神とはどんな神だったのか?>

この場所は、我が家にとっても、本家・神長官にとっても大切な場所であったといえる。
初午の日(2月の最初の午の日)には守矢牧【牧=昔から血族として、何らかの繋がりの中に互いに守りあって生きて来た同姓者の集団】として、六軒の家が集まり祭祀を行っていたのだ。当番の家に集まりご馳走を作り、お神酒や供物を持って先祖神の祠「鹿乙明神」にお参りに行くのである。
祭祀のクライマックスには、守矢の本家である神長官のご当主が祝詞をあげて、皆が礼拝をして一番重要であろう行事が終わったという事だ。

本家・神長官が守る御頭御社宮司総社。

その後餅を搗き・のっぺい汁を作り、酒肴が用意されて大人たちの酒盛りが続いたようである。子供たちも大いに楽しんだというが、あまり記憶がない。きっと御馳走を食べるのに、忙しかったのだ。

イチイの木が植えられたのは、樹齢から見て1520年頃だと推測される。「鹿乙明神」は、1540年ウトウ沢が崩壊し、僕から遡ること14代前の守矢幸実(戦国末期の神長官当主・守矢頼真のいとこ)が天狗山から長沢に移居した頃、我が家の屋敷神として祀られたと考えられる。その頃、守矢幸実は諏訪社の大政所職であり、上社は祭祀再興をかけて動き出した頃である。ひょっとするとイチイの木の下に石の祠を置き、ここに神を降ろす場所を作ったのは、守矢一族としてタケミナカタの手が加えられたミシャクジ信仰ではなく、古来ミシャクジ信仰を呼び戻す事を画策したのではないかと、考えてしまうのだ。

<鹿乙明神を推測してみる>

さて鹿は、山の神(天狗)が里に下りて他の神となるときの先導役と言われるが、里で稲や葉を食べてしまう為、人に狩られてしまうのである。
「鹿乙明神」は、『諏訪上社の祭祀の為に鹿を狩る、そして田畑を守る為に鹿を狩る神』を祀ったのではないのだろうか。屋敷神が祖先神と関わり合いが深いというのならば、鹿を狩る仕事をしていた我が家の祖先神は、洩矢神の息子「千頭の鹿を狩った・守宅神」か、その「息子・千鹿頭(ちかとう)神」しかないと思うのである。
※守矢家系譜  洩矢神―守宅神―千鹿頭神―児玉彦命…と続く。

屋号を「鹿乙茶屋」から「森田屋」に変えたことから、「守宅神」を祀っているのだという考えもある。だが僕としては、「千鹿頭神」ではないかと考えている。いくつかの状況証拠を今集めているところで、今後何か発見したら続編としてまた載せたいと思っている。
若干消化不良である事は否めないが、わが家の歴史に関しての話はここで一旦終わりとしたい。

諏訪市豊田にある「有賀千鹿頭神社」

三回にわたり、お付き合いいただきありがとうございました。あまり諏訪に興味を持たなかった僕が、こうして自分の家のルーツを語れるようになったのは、ひとえに諏訪の友人たちのおかげである。そして父の残してくれた「家記考」という私製本があったからでもある。諏訪大社上社に少なからず関わりのあった我が家の存在を、皆さんに知っていただけただけで満足しております。続編が出来ましたら、また是非ご覧ください。

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ライター紹介 守矢正

1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。
1964年清陵高校の教師であった父が、東京で学校創立に参加する為一家五人で東京へ引っ越し、その中高一貫教育の学校に入学・卒業。日本大学文理学部に入学・卒業し、東急百貨店東横店に入社。そこで40年無事勤務し退社。
我が家が神長官の分家である事から家史を調べたり、諏訪に魅かれて父が残したコレクションを基に色々な角度から、故郷に思いを巡らせる日々を過ごしている。

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