【のだオバさん直撃!】フードファイター泉拓人は摂食障害だった! ヒモ生活、諏訪で出家するまでを追う(後半)

☑️フードファイター時代は、過食嘔吐を繰り返す摂食障害だった!
☑️ヒモ生活だったヴィジュアル系ロックバンド時代を公開!
☑️41歳で出家した一部始終とは?

1990年代後半から2010年にかけて起こった大食いブーム。その一翼を担ったのがこちら『フードファイター泉拓人』(本名 坂本賢吾)である。
2008年、突然の引退に死亡説まで流れたが…実は諏訪にいたのだ。おまけに出家までしていた。プロミュージシャン➡︎ヒモ生活➡︎摂食障害➡︎フードファイター ➡︎I T社長➡︎出家…。僕は話を聴いていくうちに、この波乱万丈な人生をどこかに書き留めたいと思った。

41歳で出家。僧名 宥空(ゆうくう)

前回は、最愛の母親を亡くした話や、ヴィジュアル系ロックバンド『Dué le quartz(デュー・ル・クォーツ)』のギタリストとしてライブハウスを埋め尽くした話、そしてバンドを脱退した話を書いた。
『【のだオバさん直撃!】死んだと噂になったフードファイター泉拓人が、諏訪で出家していた!驚きの結末とは!?(前半)』

ヴィジュアル系ロックバンド『Dué le quartz』ギタリストKen(20才の頃)

輝かしい世界にいながらも、常に生きづらさを感じていた賢吾さん。バンド脱退後はフードファイターの道に進むも、過食嘔吐する『摂食障害』や、彼女の自殺、自身の自殺未遂など葛藤に満ちた道のりだった。
深すぎる話に記事にするのをためらったが、賢吾さんから「全てを記事にして欲しい」とお願いされた。賢吾さんの人生が誰かのお役に立てることを祈りつつ書いていきたい。

ミュージシャン人生の終わりと、ヒモ生活

賢吾さんは、ヴィジュアル系ロックバンド『Dué le quartz(デュー・ル・クォーツ)』脱退後、有名バンドも含め方々から声を掛けられたが、「自分でバンドをつくりたい」と全て断っていた。しかし、思うように良いメンバーとは出会えなかった。そんな中、声を掛けられたのが『Gill’e cadith(ジルカディス)』というヴィジュアル系ロックバンドだった。このバンドが、賢吾さんにとって最後のバンドとなった。

『Gill’e cadith』を脱退した理由は「自己崩壊だった」という。バンドのコンセプトが強烈で、異色に振り切ったバンドだった。血のりを唇に塗りたぐり、狂ったような曲に合わせ、狂った目と狂ったパフォーマンス…。そして大変だったのが、ライブ後に毎回行われる社長同席の反省会。次第に何だかよく分からなくなり、「続けられない」と申し出て脱退した。
上京から約8年、賢吾さんは「音楽をやり切った」という感覚があった。ミュージシャン人生に幕を閉じたのである。

ライター『のだオバさん』(僕)が、話を聴いていて気になったことがある。それは『お金』。バンドマンって儲かるのか?ストレートにぶつけてみると…
「野田さん、お金は女性に貢いで貰うものですよ。そういうもんだと思っていました」
と涼しい顔で答えよった。なぬーーーーーー!?である。僕が読んでいたモテバイブル『ホットドッグ・プレス』にはそんなこと書いてなかったぞ!男はカッコよく支払えと。

女性に奢りまくったのに…成果が無かった頃の僕。番組『ナイナイサイズ』で登った富士山にて。

ということで、女性関係の話を嫉妬しないで聴いていきたい(笑)
数多くの女性と付き合ったというが、その中でも賢吾さんの人生に深い影響があった女性について話してくれた。

賢吾さんに貢いだ女性たち

「処女を買ってください」Aさん
そう言われたのは上京して2年が経った頃だった。元々は先輩バンドのファンだったAさんに、ある夜そう告げられたのである。
賢吾さんは、元ホストの音楽仲間から「お金は女から貢いで貰うもの」と聞いていたので、「いくら貰えるの?」とAさんに問いかけた。話し合いの末、30万円でまとまった。実際にはその半分を受け取って関係は終わった。賢吾さんは、それからお金と女性への感覚が変わっていったという。

生活費を全て貢いだBさん
2人目は、メジャーバンドの先輩との飲み会で出会ったBさん。
罰ゲームに負けて、ビールを一気飲みしている賢吾さんに惚れたと交際を申し込んできた。「家も借りるし生活費も出すから」との条件までつけてくれた。賢吾さんはこの時、後に妻となる紀代美さんと付き合っていたが、「バレなければ良い、バンドで成功するためだ」と自分に言い訳し交際を始めた。

何もしなくてもお金が入ってくる…。
その感覚は、次第にバンドで成功する事から逸れていった。バンドのために協力してくれているのに、いつからかお金のためにバンドをやっているフリをした。

そんな甘えの中で、次の女性Cさんと出会い惹かれ合った。
交際を始めると間もなくBさんに発覚することになる。Bさんは心身が不安定になり帰郷してしまった。

賢吾さんはBさんの家具一式を車に積んでお詫びに向かった。道中、Bさんとの思い出が蘇ってきた。Bさんの愛を感じ、涙が止まらなかったという。「どれほど苦しませたか、好きが故に僕に音痴と言えなかった…そんなBさんが夢見た未来を壊してしまった」と。

風俗で働き貢いだCさん
Cさんとも間もなく別れることになる。
若い女性が人を養う職業といったら限られる。Cさんは風俗で働いていた。「風俗はしない」と約束していたが…それしか道はなかったのかもしれない。

そのころの賢吾さんは、ミュージシャン人生も終わりに差しかかっていた。バンドの方向性に納得いかず苛立ち焦る日々。そんな中、想いを持って付き合っていた女性が、仕事とはいえ雑誌に出たり、他の男性と関係を持っているという事実に、嫉妬で胸が焼ける様に痛かった。

辞めてくれと言ったが辞めなかったので、Cさんの両親にその旨を伝えた。
怒った両親からは「裁判する」と言われた。賢吾さんは、逃げも隠れもする気がなかったので、謝罪し受け入れる覚悟をした。そしてCさんとは別れた。

元カノの縁で貰った仕事。しかし…

そこから事態は急変する。
数日後、Cさんから「実家の運送業の人手が足りないから働いて欲しい」という連絡があったのである。断る理由も無く、関東近郊にある運送会社へと向かった。
「何を言われても、されても仕方ない」そんな覚悟で社長の父親や専務の母親と会った。
まずは誠意を持って謝罪したが…したことには何も触れられず、時折笑顔を見せながら仕事の説明があり、次の日から働くことになった。 賢吾さんが24歳の時だった。

仕事は早朝に市場で集荷して、病院やスーパーで荷下ろしするルート配送だった。
とにかく間違えないよう、迷惑をかけないよう必死で働いた。それはお詫びの気持ちでもあった。

そして1ヶ月が過ぎた頃、思いがけず給与を貰った。無償だと思っていたのでビックリした。それ以降、大きなミスもなく数ヶ月が経った頃、社長から「正式に社員になって貰えないか? 東京から通うのは大変だろうから近くに家も借りる」という話を頂いた。「君はスーパードライバーだ!」という有り難い言葉も掛けて貰った。賢吾さんは、やっと許されたという安堵の気持ちと同時に、まだ微かに残るバンドへの想いが引っかかっていた。社長には感謝をしつつ社員は辞退させて貰った。

しかし、そんな喜びも束の間だった。賢吾さんの身体に異変が起き始めたのである。

過食嘔吐が始まった…

社長に信頼されてから配送ルートが変わり、東京近郊の高速に乗る機会が増えた。東京の渋滞はひどく、全く動かない時もあった。そんな中、指定の時間に間に合わないことも出てきた。社長は充分に承知していたが…「完璧にちゃんとやりたい」という賢吾さんの思いがそれを許さなかった。気持ちはどんどん焦り出し、その積み重ねがストレスになっていった。

そんなある日のこと、いつものようにコンビニ弁当を食べて渋滞にはまった時、ふと「このカロリーはどうなるんだろう?」と頭をよぎった。バンドを始めてから何年も、「人前に立つのだから太ってはいけない。痩せている方がカッコいい」とカロリー計算をしてきたのに…消費されないであろうカロリーに対して、ストレスを感じるようになったのである。

しかし、その答えは最速で出た。
「吐けば良いじゃん!」
それ以降、コンビニ弁当を食べては次のコンビニのトイレで吐く、そんな行動が始まった。それを覚えてからは、今まで口にしなかった高カロリーの弁当やお菓子を食べるようになった。体重も少しずつ落ちて得した気分になっていた。
しかし、身体の状況は悪化していくことになる。

記憶障害…そして摂食障害が悪化した

「ただ吐けば良い」
何も考えずに食べては吐いてを繰り返していた時、仕事でミスをするようになったのだ。集荷し忘れる、違う場所で商品を降ろしてしまう。ちゃんとしようとしてもミスしてしまう。次第に自分でも「おかしい。記憶障害かもしれない」と思い始めていた。

そんなある日、社長から「坂本君、バンドの事が気になるのだろう?もう充分やって貰ったから辞めて貰っても構わないよ」と伝えられた。社長には感謝を伝え、お世話になった会社を辞めた。

仕事を辞めてもバンドを再開する気持ちにはなれず、家にひきこもり食べては吐いてを繰り返していた。そんな中、数年ぶりに後に妻となる紀代美さんと会うことになった。別れ際に「助けて欲しい!ちょっと大変な事が起きているんだ」と、初めて人に過食嘔吐を打ち明けた。紀代美さんは受け入れてくれて、東京の葛西で同棲が始まった。

同棲が始まっても過食嘔吐は止まらなかった。食べ出すと、入らなくなるまで食べないと気が済まない。満腹になると「吐かないと太る」という恐怖から、胃が空になるまで吐き続けた。そして直ぐにお腹が空くからまた食べた。医者に貰った睡眠薬で何とか眠りにつくことができたが、そんな毎日をただただ繰り返していた。

そんなある日、父親が出張で東京を訪れた。
日々の辛さを思い切ってカミングアウトすると、受け入れてくれてこう言った。「お前は『親子』でもあるが『戦友』になった」と。それからは父親と、摂食障害に定評のある病院巡りが始まった。しかし相性もあるのか、そう簡単には治癒しなかった。
父親は摂食障害に関する本を何冊も読んでくれていた。どこまでも深い愛で受け止めようとしているのが、電話や手紙で伝わってきた。
賢吾さんは実家に帰る度に「こんなに迷惑をかけているんだから、殺されるかもしれない」と本気で思い父親にも伝えたが、その度に笑い飛ばされた。安心はしたものの「大きな心労をかけてしまって申し訳ない」という後ろめたさがずっと心に残った。

フードファイター 泉 拓人への道

“鬱(うつ)”と診断されることもあったが…自分の内側から溢れるエネルギーは感じていた。それでも押しつけてくる先生に殴りかかったこともあった。止めようにも止められない症状。いつしか「とにかく食べたいなら嫌になるほど食べてやる。そして吐いてやる」と開き直っていた。

そんなある日、テレビ東京『元祖!大食い王座決定戦』関東予選の応募が目に留まった。
勝負よりもどこか挑戦したい気持ちがあった。そんな気持ちを汲み取った紀代美さんが『泉 拓人』という偽名で応募した。
なぜ『泉 拓人』という名前だったのか!?
それは中学の同級生だった賢吾さんと紀代美さんが、学生時代にはまったボーイズラブ漫画『BRONZE』の主人公名だったのである。

予選会場は高円寺駅前の桃太郎すし。
結果はダントツだった。お寿司を約100皿食べての優勝だった。
「本選出場決定〜!!」というアナウンサーの声が響き渡る中、テレビカメラを独占し、参加者や見物人から注目を浴びた。その時の優越感は忘れられなかった。

数日後、本選出場選手のプロフィール撮影で改めて自分の求めているものが分かった。
「自分を知って貰いたい!有名になりたい!それが生きる価値だ。そして誰も手の届かないところで生きていたい!」
テレビ出演はその思いを充分に満たしてくれた。番組の放送が決まり、宣伝の雑誌が販売されると嬉しくなって見知らぬ人に「僕、出ているんですよ」と自慢げに話しかけた。

その当時はまだバンドへの意識が強かったので、腰まである金髪にサングラス、そして細くカッコよく見せるために、体の線が出る派手な服を身に纏った。常に誰かに見られているという意識で、歩き方や振る舞いにも気を使っていた。

本選では準優勝だったが、そんなキャラクターが面白がられ、大食いブームも手伝って『大食い 侍ギタリスト』という特集ページや、色んな番組に呼ばれたりもした。

“食べては吐く”という摂食障害としての大食い。
タブーな空気ではあったが…フードファイターの中には、同じような人がいるのを知って、「職業として食べるためだ。これでいい」と過食嘔吐をほぼ肯定するようになった。罪悪感も薄れ、少し気持ちが楽になっていった。
しかし、そんな時に事件は起こった。

彼女の自殺

テレビの露出が増えていく中で、地方に住む女性DさんとSNSで知り合った。
どこか自分と似ている感じがして仲良くなった。それは恋愛感情というより、親友という感覚だった。賢吾さんは「男女関係になると別れしかないから、そんな関係にならないでおこうね」と伝えたが、Dさんからは「そうではない未来だってあるかもよ」と、未だに忘れられない言葉を投げかけられた。

何回か遊ぶうちに、付き合うようになった。
そんなある日、Dさんが「友人もいるから東京に遊びに行きたい」と言い出した。
そして事件は起きた。

東京に遊びに来て2日目の昼頃。賢吾さんが起きると隣に寝ていたはずのDさんがいなかった。散歩でもしているのかとあまり気にせずトイレに向かった。
トイレのドアを開けると、床に座った状態のDさんがいた。直感で首を吊ったと分かった。頬を叩いても大声で呼んでも動かなかった。現実でないことを祈りながら、救急車を呼んだ。あとは任せるしかなかった。

2週間後には葬儀を終えた。
賢吾さんは当時を振り返ると、未だに本当の理由は分からないという。Dさんが言っていた「そうではない未来だってあるかもよ」が、このことだったか?
Dさんは母親から「あんたなんか生まなきゃ良かった」と言われ続けたことに、深く傷付いていた。
「少しでも心を許せる存在と出会えたから、僕の元であの選択をしたのかもしれない…自分の都合ですがそう思っています」と、力なく語った。

自殺未遂…そしてフードファイター引退

それから間もなく、賢吾さんは手首を切った。
治らない過食嘔吐、母親の死、Dさんの自殺、バンドの不成功、フードファイターとして有名になったことで電子掲示板『2ちゃんねる』で万を超える誹謗中傷、さらには自分の本当の声さえも分からない…。

孤独と絶望しか味わえず「もう、いい」と思った。
手首を切って自分勝手、好き放題やっているけど「こんなに僕は傷付いているんだ」と知って欲しかった。もっと甘やかして欲しかった。もっと深く愛されたかった…意識が遠ざかりながら感じていた。
溢れる血をしばらく眺めていたあと、再び付き合いだしていた紀代美さんを大声で呼んだ。その後、救急車で運ばれたらしいが記憶はなかった。

退院はしたが身も心もボロボロになり、フードファイターへの気力は失せていた。
その年の『元祖!大食い王決定戦』は出るつもりはなかったが、お世話になった番組プロデューサーから懇願され出場した。ギャル曽根に負けて決勝へは進めずフードファイターは引退した。30歳の春だった。

意識を変えた大震災

その後も生きるか死ぬかをずっと考えていた。「死んだらもう生まれ変わりたくない」とさえ思っていた。極度の過食嘔吐は続いていて、体重は37キロ付近まで落ちていた。そして、よく気絶するようになっていた。

そんな折、あの東日本大震災(2011年3月11日 )が起こったのである。
2008年に紀代美さんと結婚していた賢吾さんは、江戸川区のマンションに暮らしていた。いつものように過食していた時に地震が起こった。そして、地震から引き起こされた原発事故が、賢吾さんの意識を大きく変えることになった。
「今までの生き方や常識が通用しない時代に入った」という感覚が生まれていた。

同時に紀代美さんが、お腹にいる子どもの放射能汚染を心配して「長野に帰ろう」と言い出した。もう叶えたいこともないと15年過ごした東京を引き払い、二度と戻らないと決めていた長野県の実家に帰ったのである。
父親は賢吾さんの顔を見るなり泣いた。そして「安心した」と一言つぶやいた。賢吾さんは父親の深い愛情を感じ、何も言わず、ただその愛情を受け取っていた。
生まれ育った木造の家は、張り詰めていた東京時代には考えられないほど、ゆったりと時間が流れていた。とても心地良かったが、「この田舎で生きていくんだ…」という諦めの気持ちも少しあった。

摂食障害からの克服

賢吾さんは新しい環境になったことで、少し心の余裕が生まれた。そして摂食障害について自分自身に問い掛けるようになった。

「何の為にしているのか?」
重きを置いていたのは「食べたい」という衝動より、「太りたくない」という気持ちだった。

「太りたくないのはどうしてなのか?」
いつの間にか生まれていた「自分は人から見られている、注目を浴びている存在だ」という自意識過剰な思い、そして「人から認められることが、自分が存在していける唯一の価値だ」という思い込みだった。

「それらの気持ちが、これからの人生に必要か?」と問うた。「きっともうバンドをする事もない。田舎で周りと同じように働いて暮らしていくんだ。必要か?」と。
自身の答えは「もう太っても良い」だった。だから「もうどれだけ食べても吐くことは止めよう」と決心した。
吐かないことが前提の食事は10年ぶりだった。

食事は玄米とアジの開き。吐くことを手放していたので恐れはなかった。一口一口、身体と会話しながら食べた。お腹にたまったので、次の食事はもう要らないくらいだった。
1週間も経たないうちに、過食嘔吐の衝動はなくなった。止めたくても止められなかった摂食障害を完全に克服したのである。
賢吾さんは「これだけの長い間、大きな愛情で包み続けてくれた親父や紀代美、周りの方のお陰でしかありません」と感謝と共に振り返った。

初サラーリーマンからI T社長へ

摂食障害は治ったが、生活していくには仕事が必要だった。そんな折、高校の同級生だった義兄から「製造業で独立をするから手伝って欲しい」という話があった。ありがたく引き受け、31歳にして人生で初めてサラリーマンになった。

仕事は義兄が取ってきた案件を、エクセルのテンプレートを使いながら手配や納品をしたり、経理業務だった。簿記が役に立つと分かると、必死に勉強して二級まで取得した。久々の勉強は楽しく、理解する喜びを味わっていた。

会社の業績も順調で仕事量が増えていくと、エクセルでの管理や伝票発行に無理が出てきた。そこで出会ったのが、ソフト開発・データベースプログラミングだった。次第にその面白さや可能性に惹かれ、3年後にはI T社長として独立することになる。

I T社長時代 38歳

独立して分かったのは「全責任を自分で取る。何もかもが自分に返ってくる」ということだった。その生き方がとても心地良かった。
自分を変えたいと、コーチングやアドラー心理学を使ってリーダーシップを学ぶセミナーにも参加した。仲間も大勢できて一気に世界が広がったが、それはまだまだ浅いもので「どこか自分が正直でなく嘘をついている」そんな感じがしていた。

自分が創りたい人との関係とは何か?
もう一度原点に戻ったときに出た答えは「人数ではなく、本当に信頼し合える仲間が欲しい」というものだった。そのために「嘘は止めよう。取り繕った態度は止めよう。嫌われようがちゃんと本音で生きていこう」と心に誓った。

心の在り方の大切さ!出家の道へ

お客さんと接するうちに、大切にしたいものが見え始めてきた。
良い商品は当然だが、それよりも前に「いつも必ず自分の在り方が大切」ということだった。自分の心の在り方で、言葉使いも振る舞いも変わってくる。そうすると当然、成果も変わってくる。

自分の内面に重きを置くようになった時、地域活動をしていた諏訪圏青年会議所で、のちに師増となる『仏法紹隆寺(高野山真言宗)』の岩崎宥全住職との出会いがあった。賢吾さんにとって出家はとても自然な流れだったという。

仏法紹隆寺 宥全住職(右)

出家とは、どういう流れなのか?
“出家”という言葉は一般的だが、実際はどういうものなのか?賢吾さんに聴いてみた。
「出家の正式名称は得度式(とくどしき)と言います。得度とは三途の川を渡る=仏になる事を指します。俗世から仏の世界へと入るための儀式で、阿闍梨(あじゃり)という偉いお坊さんから10個の戒律を頂き、それを全うする事を約束し頭を丸めて出家となります」とのこと。

戒律を授かり、頭を剃っていただくのを待つ賢吾さん。

無事に剃髪が終わり、僧名である『宥空(ゆうくう)』が誕生した。41歳。

人生を振り返って見えてきたこととは?

僕は、賢吾さん(宥空さん)の話を聴き終わると、大きなため息をひとつついた。
短い時間では咀嚼できないほどの話だったので、少し時間が欲しかったのだろう。そして絞り出した言葉は「大変でしたね…」だけだった。47年も生きていながら、小学一年で『おしゃべり九官鳥』というあだ名をつけられていながら、こういう時の言葉を持ち合わせていない自分に落胆した。

おしゃべり九官鳥時代の僕

賢吾さんの話は強烈で、数日間は尾を引いた。
「人はなんで生きているんだろう?」答えが出ない疑問が渦巻いていた。
気持ちが落ち着いたころ、賢吾さんが今、何を思っているのか? 聴きたくなって再び会いに行った。

こんにちは!なんすかその格好?
いつものお気に入りの格好です!

「なんか、キャラ濃いなぁ…一緒に歩きたくないなぁ」と、心で思う僕。

賢吾さんは、ご自身の人生を振り返ってどう思われますか?
自分の人生を振り返ると、テーマは『孤独』そして『現実逃避』です。孤独は何度も何度も繰り返し、大切な人たちが命を懸けてまで私に体験させてくれました。しかし辛いので、孤独を受け入れないよう現実から目を背けて生きて来ました。そして孤独を言い訳にして、孤独を利用して他人に寂しさを埋めてもらう。そんな人生でした
話を伺っていて、その寂しさを埋めて貰ったのは女性が多い気がしますが?
はい。紀代美の誠実な愛に支えられながらも、常に異性を求めていました。付き合っても関係を持たない女性が何人もいたことから、精神的な繋がりをずっと求めていたんだと思います。それは、他人を通してでしか自分の存在理由を見つけられなかったから。恋人という距離感で自分を必要として欲しかった、存在を認めて欲しかった。今思うと、他人の中に自分の生きる理由を求めていました

しかし、そこからは本当の豊かさに繋がるものは何も生まれなかったです。現実から目を背けていた私は、自分を認められず信じ切れず…自信は虚栄で常に臆病に生きてきました。その臆病の裏返しがテレビ出演やバンドなどの一見派手な行動でしたし、そこに存在価値を求めていました。
そして、常に人を疑って生きてきたのは、まず自分を疑い認めていなかったからだと思います。私の人生課題の一つは“自己承認”だと思っています
なるほど…深いですね…(言葉が出ない)

固まる僕…おしゃべり九官鳥ガンバレ!

これからの人生で大切なことは“目的意識”だと思っています。強烈な孤独で現実逃避をしてきたので、同等の強烈な目的をもって生きる必要があると。孤独を埋めるために時間を使うのでなく、“人生の目的を強く持ち、自分を信じ切って生きる”ことをして行きたいと思います。

私の強みとしては“情熱と真っ直ぐさ”です。 その強みのお陰で、人生が強烈な出会いを必要なときに用意してくれたと感じています。その強みをこれからも活かしていきたいと思います
すごい…なんか賢吾さんと話していると、僕自身の人生が走馬灯のように浮かんできて、向き合う機会になりますね!
賢吾さんはこれからどんな事をやっていきたいですか?
私が持つヴィジョンは、地球との共存共栄です。
私たちは意識下ですべて繋がっていると思っています。それは、人間同士に限らず生きとし生けるもの全て。この宇宙、地球もです。その全てと感謝を通わせ、より良い関係が生まれればと思って生きております。そうすれば今までの“消費による発展”から“地球還元・循環型の持続可能な発展へのシフト”が必然的に叶っていくと思うのです
…なんか、壮大すぎてよく分かりませんが…一緒に頑張っていきましょう!ありがとうございました!
ありがとうございます

取材を終えて

何事も包み隠さず話してくださった賢吾さん(宥空さん)。その物語の中で、僕の心も激しく揺さぶられた。時には涙が溢れ、時には「がんばれ!」と励まし、時には女性を次々と替える賢吾さんを批判もした。(前後の物語が分かると、その批判は消えたが…)
賢吾さんと出会えた事で、間違いなく僕の中で変化は起きている。自分の人生を見つめ直し始めたのだ。そして、他人の人生には何も言えなくなった。表出した一部分を責めても何の意味もないだろう。人にはもっともっと深い物語が存在しているのだから。
賢吾さんと出会えたご縁に感謝したい。

賢吾さん改め宥空さんのYouTube『でぷ』チャンネル
人生に迷走した見習い僧侶・宥空が、宗派を問わず様々な神社仏閣を巡り、『よりよく生きるためのヒント』などを頂き、成長していく物語。

動画撮影風景 宥空さんと、師増の宥全住職と

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のだオバさん。

放送作家。夢で「諏訪大社に行け!」と言われたのを真に受け、長野県茅野市に移住^_^余所者の目線を通して、諏訪・八ヶ岳エリアの魅力を発信!花好きから「あいつオジさんのくせに、オバさんっぽいな」と言われ『のだオバさん』に…。天然の妻・フリーアナウンサー谷岡恵里子は相当ヤバい(笑)
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