この投稿では、長野県諏訪市にある「仏法紹隆寺」(ぶっぽうしょうりゅうじ)略して「ぶっぽうじ」というお寺が、お寺の歴史を中心に諏訪地域の歴史を紹介していきたいと思います。
多くの皆様に諏訪を知ってもらいたいと思い、記事を書くことにしました。よろしくお願いいたします。
仏法紹隆寺とは
正式名称は「鼈澤荘厳山 大虚空蔵院 仏法紹隆寺」(べったくしょうごんざん だいこくうぞういん ぶっぽうしょうりゅうじ)
略称は 鼈澤山 仏法寺(べったくさん ぶっぽうじ)
当山が開山されたのは、今から1200年前。大同元年(806)坂上田村麻呂が開山し、弘法大師により真言宗の学問所とされたと伝わります。当初は諏訪上社(諏訪大社上社)の仏事などを司る別当社務という役目を担い、真言宗のお坊さんの修行と学問の道場として栄えました。
江戸時代になると諏訪高島藩が成立し、諏訪神社より離れて、藩や藩主の祈願寺としてのお寺となり、地域の真言宗の筆頭寺となります。
諏訪神社の別当社務職とは
仏法紹隆寺の開山から見ていきましょう。当山には、江戸時代の1741年時の藩主忠林の命により由来をまとめた「由緒書」が残されています。
開山は大同元年(806)征夷大将軍であった坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために諏訪の神さま「諏訪大明神」に祈願をし、無事に戦勝をおさめた事でお礼に諏訪の地にお堂を建立したという話から始まります。
当山の開山には諏訪大明神が関わっているのです。そして、神仏習合の信仰のもと、諏訪信仰の仏事を行うお寺となりました。
また、諏訪神社の管理・運営を行う「神宮寺」というお寺がほぼ同時期に開山されたといわれています。神宮寺の起立書(由緒)によると大同2年(807)に開山したとあります。仏法紹隆寺と兄弟寺院といわれました。
神宮寺は諏訪上社に 普賢神変山 神宮寺
諏訪下社に 海岸狐絶山 神宮寺
という上下の諏訪神社を管理・運営するお寺がありました。
この両神宮寺は真言宗を弘めるためのお寺として、主に一般の人々に向けての信仰を伝える場所でした。
また、お寺にはお坊さんが居なくてはいけません。そして、そのお坊さんを養成する必要がありました。そのお坊さんを養成する事を主に担っていたのが、仏法紹隆寺だったのです。
常法談林所(修行と学問の道場) 鼈澤荘厳山 仏法紹隆寺
そして、後の資料によると仏法紹隆寺は社務寺院として「田役」を務めていました。「田役」とは田んぼに掛かる税金(神社やお寺を維持するためのお米)を徴収する役目を担っていました。
諏訪上社の別当社務寺院として、江戸時代初期まで諏訪神社に関わってきましたが、戦国時代が終わり諏訪高島藩が成立すると、諏訪家再興の諏訪頼忠公より諏訪家や諏訪高島藩の祈願寺に指定され、それを機に諏訪神社の別当社務職の解任を願い出たと記録にあります。
その際に諏訪上社領よりもらっていた御朱印地(幕府が認めた領地)を返納しましたが、代わりに矢ヶ崎荘(茅野市矢ヶ崎)十六石を仏法紹隆寺領としていただきました。
別当社務職は辞任しましたが、その後も諏訪上社出入5ヶ寺の一院として諏訪上社(諏訪大社上社)へ出入りしていたことも記録されています。
今回は、ここまで。 次回は「お坊さんの修行と学問の道場 常法談林所」について書きたいと思います。
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ライター紹介 岩崎宥全諏訪生まれ。中学卒業後に諏訪を離れ高野山にて修行をしておりました。 |