―太鼓をはじめたきっかけ―
父と祖父…感覚の違い
〜御諏訪太鼓伝承者 山本麻琴vol2〜

☑️2歳児のお稽古始めに父と祖父の意見が分かれた
☑️私と母は同じキャリアでありライバル
☑️初めての諏訪大社秋宮御諏訪太鼓奉納は3歳

1984年 御諏訪太鼓子供会由布姫太鼓練習風景…1人横を向いている私

私が太鼓をはじめたのは、2歳半と言われて育ってきた。はじめた頃の記憶は覚えていなのだが、なぜ2歳半の私が太鼓をはじめたのか?そんな話しからしたいと思う。
※前回の記事『一万枚以上のレコードをもつ父と御諏訪太鼓宗家の娘の間に生まれた私』はこちら。

両親から聞いた話しによると、2歳を過ぎたころ御諏訪太鼓子供会由布姫太鼓の演奏を観ていた時に、太鼓の曲に合わせて私が踊りだしたという。それも、太鼓を打つ子供たちの前でお客さんに向かって踊っているので、観ていたお客さんは幼児が突然踊りだした姿に喝采したという。その姿を見ていた父は、息子が太鼓を始めるタイミングは“今しかない!”と直感的に閃き、直ぐに御諏訪太鼓子供会への入門を考えた。しかし祖父(小口大八師)は、幼すぎると反対したという。なぜなら、まだ話しもちゃんと聞くことが出来ず母親が居なければ何も出来ないような幼子に太鼓を習わせても、直ぐに嫌になってしまうだろうと思ったのだ。(孫に太鼓を嫌いになってほしくないという祖父心だったのだろう…)それでも父は、母親と一緒に習わせれば必ず続けられるだろうし、何よりも本人の意思で太鼓が好きだと思い始めた瞬間から太鼓を習わし、耳や体を通して感覚的に御諏訪太鼓を覚えていくことが重要だと考えた。…と、大人になってから私に話してくれたことがある。そんなこんなでお稽古を始められたのは2歳半だった。

1984年 8月1日 諏訪大社にて 右から父、私、母

ちなみに、母は小口大八師の実娘だが太鼓を打つ機会が無く育った。というのも、昔は女性が太鼓を打つことは反対されていた風潮があり、「太鼓に触れてはならぬ!」と言われて幼少の頃から育ってきたので、大人になってからも近づこうとはしなかったのだ。しかしながら、幼い息子が太鼓を続けるためには母親が一緒に太鼓を打たなければ駄目だという夫の言葉により、意を決して始めた。なので、私と母は同じキャリアでありライバルとも言える存在なのだ。

1984年 8月1日 諏訪大社秋宮境内 御諏訪太鼓子供会由布姫太鼓 奉納 曲目・飛竜三段返し

初めての諏訪大社秋宮御諏訪太鼓奉納は3歳だった。ご存じ無い方も居ると思うので、御諏訪太鼓とは諏訪大明神に太鼓奉納をし、無病息災・五穀豊穣を願う神楽の伝承をしてきている民俗芸能である。御諏訪太鼓復元の元となった「藤太郎覚書」にも、毎年8月1日には諏訪大社秋宮にて諏訪太鼓の奉納打ちくらべがあり、優劣の順位をつけていたと書いてあり、川中島の合戦以来400年近くも続いた儀式だったという。御諏訪太鼓奉納は例年元旦と8月1日のお舟まつり、そして御柱祭の際にも境内で執り行っている。本年も8月1日お舟まつり太鼓奉納を執り行なえるよう準備をしてきたが、コロナ禍による密集・混雑を避けなければならないという諏訪大社様のご意向があり、私自身は生まれて初めて御諏訪太鼓奉納の無いお舟まつりを迎えることとなる。
-転禍招福 息災延命‐
一日も早くコロナ禍が鎮まること
病に苦しむ方が回復すること
世界中の人々が平穏な暮らしになることを願います

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―幼少期の試練― ~心地よい太鼓の音との闘い~

御諏訪太鼓 公式サイト
http://osuwadaiko.com/home/

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ライター紹介 御諏訪太鼓伝承者
山本 麻琴

諏訪大社の太々神楽を伝承する御諏訪太鼓の家元に生まれ、御諏訪太鼓宗家・小口大八、山本幹夫の両師に師事。国内外を巡演して育ち御諏訪太鼓子供会打頭・会長を歴任。現在は長野・東京・神奈川で定期的に指導をし、東京都公開講座の講師もつとめる。ソロ奏者としては5種類の太鼓を組み合わせて打つ大曲「阿修羅」(小口大八作曲)を10代より喜多郎らと共演してきた。また、自ら太鼓製造も手掛けるジェネラリストである。

               

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