マッチのラベルから、その時代を旅する「タイムとラベル」5
宗藤本と宗藤

☑️老舗割烹「宗藤本」は、諏訪の花柳界を担った。
☑️元内閣総理大臣 宮澤喜一氏も泊まった、ホテル「宗藤」。
☑️小川平吉氏と曾祖父一太郎、そして宮澤喜一氏との関係。
諏訪に花街があったらしい。温泉地には存在するものではあるが、特に諏訪は岡谷の製糸業の関係で盛んな時期があったと聞く。
(岡谷の製糸業の記事はこちら)

当時のままの姿を残す建物も、見ることが出来る様だ。

2006年の豪雨災害で浸水し、倒れそうになっていた建物を改装した見番(けんばん)

見番とは【花街で、芸者の取り次ぎや送迎、玉代(ぎよくだい)の精算などをした所】

その『大手見番』は、上諏訪駅周辺の大手から湖岸通りを中心に活動を行なったそうだ。主な芸妓の派遣先としては、「信濃」、「宗藤本」、「港新」、「市川」、「水月」などの料亭があったようだ。今は改装されしゃれた作りの建物が残っている。
この諏訪大手町は、かつて諏訪の花柳界の中心となり栄えた所で、その大手町にあった老舗割烹(かっぽう)「宗藤本(そうふじもと)」が、今回紹介するラベルの店である。

割烹宗藤本のマッチのラベル

<諏訪の花柳界を担った・宗藤本>

その老舗割烹「宗藤本」の女将さんが書いた自叙伝的回想録『まぼろしの花街 大手』が、長野日報社から発刊されている様だ。製糸産業の全盛時代から諏訪の町を花柳界から観察をした、華やかな交友録となっているらしい。この本の著者・藤森さんは「宗藤本」の4代目で、大手町で生まれ育ち、結婚してご主人とともに諏訪の花柳界を担ったようだ。今となっては残された大手見番の看板と、わずかに残った芸者に名残を留めるだけになったが、昭和の初めは200人を超える芸者が芸を磨き、界隈は毎晩三味線の音が響いたそうだ。
戦争を節目に時代は変わり、「宗藤本」も激動の時を乗り越えたが、1959年には料亭を閉じ諏訪湖畔に「ホテル宗藤」を創業。五木寛之、瀬戸内寂聴、阿川弘之など多くの著名人も宿泊したが、2000年に後継者がいない事などから、惜しまれつつ廃業したようである。

その料亭「宗藤本」と「ホテル宗藤」のマッチのラベルがここにある。

ホテル宗藤のマッチのラベル

<宮澤喜一氏も泊まった、ホテル宗藤>

さてこの「宗藤」だが、こんな話も発見。皆さん諏訪郡富士見町出身の政治家 小川平吉氏の事は、ご存じだろう。その小川平吉氏の次女ことさんが嫁いだのが元代議士宮澤裕氏なので、ことさんは元内閣総理大臣宮澤喜一氏の母になるのだ。宮澤喜一氏の風貌は孫の中では平吉氏に一番似ていて、「喜一ちゃん」と呼ばれ富士見の人々に可愛がられたという。宮澤元総理は小さい頃平吉氏の言いつけで、『瑞雲寺』の墓掃除をやったそうだ。

富士見町にある『瑞雲寺』

平吉氏がなくなった後、1962年ごろ経済企画庁長官だった宮澤喜一氏が墓参に来ているが、その時泊まった宿がこの「宗藤」だったそうだ。その後も墓参の度、ここに泊まっていたようだ。

今回の発見は大叔父の描いた『諏訪の名士』の絵を、長野日報に取り上げてもらった時に、偶然長野日報の記事項目の中に「宗藤本」の名を見つけた事に端を発した。よくもまあ発見できたものだと、大叔父に感謝している。普通にやっていたのでは、巡り合えない情報だった。「宗藤本」は1959年に廃業しているから、ラベルの年代は昭和30年前後になるのだろう。そして、ホテル宗藤のラベルは開業当時に作られたものだろうと考えていいので、昭和34・35年からの物になるだろう。

ちなみにこちらが、大叔父 守矢剣二が描いた『諏訪の名士』である。

昭和四年南信日々新聞の「家庭漫訪」「人物月旦」のコーナーに掲載されたものの一部。

<我が家で犬養毅氏が御柱祭を見学>

実は私の曾祖父・守矢一太郎は、小川平吉氏の秘書だった。ウィキペディアで小川平吉を見ると、中ほどに矢守一太郎とのエピソードが書かれているが、それは守矢の間違えである。大正15年に小川平吉氏は、当時富士見山荘にいた政界の実力者である犬養毅氏を招いて御柱祭を見物している。その時見物に使った場所というのが、神宮寺の我が家の二階であった。写真も残っている。

右の張り紙のしてある柱から左2番目に座っているのが犬養毅氏・その隣が小川平吉氏・平吉夫人。左の柱の左に小さく見える坊主頭が父、当時2歳の時だった。肝心の曾祖父は犬養毅氏の後ろに立っているが、暗くて顔がわからないのが残念だ。

その時犬養氏は、庭で騎馬行列と記念撮影をしてご満悦だったという。そのおかげかどうかは分からないが、小川平吉氏は鉄道大臣に就任している。我が家が政治の舞台に使われたなんて、凄い!!

こうしていろいろ調べていると、結構自分の身近なところに、いろいろなものが繋がっているのだと感じる。諏訪の繁栄の根っこに、岡谷の製糸業の繁栄が強く関わっていたように、我が家に関していえば諏訪という土地柄が関係しているような気がする。気の流れの様なものが、あるのではないだろうか。
高祖父の浄瑠璃の謡にしても高遠とのつながりも大きい。曾祖父や祖父・父の俳句や俳画など、中塚一碧楼・岩波其残・河東碧梧桐などが自然と我が家に集まり、それぞれが生きた時代の流行をここで育んだと思えるのだ。諏訪という所は、皆が集まって何かするのにもってこいの場所だったのだと思う。次はどんなものに出会えるのか、楽しみだ!!

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ライター紹介 守矢正

1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。
1964年清陵高校の教師であった父が、東京で学校創立に参加する為一家五人で東京へ引っ越し、その中高一貫教育の学校に入学・卒業。日本大学文理学部に入学・卒業し、東急百貨店東横店に入社。そこで40年無事勤務し退社。
我が家が神長官の分家である事から家史を調べたり、諏訪に魅かれて父が残したコレクションを基に色々な角度から、故郷に思いを巡らせる日々を過ごしている。

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