セピア色の記憶
諏訪大社上社・神宮寺の記憶

☑️諏訪大社上社に隣接して建っていた神宮寺とは?
☑️何事にも代えがたい中州・神宮寺での思い出。
☑️第二室戸台風(台風28号)に遭遇した時の記憶と記録。

<廃仏毀釈によって取り壊された神宮寺とは?>

小学校六年まで過ごした中州・神宮寺の記憶は、父が撮っていた写真がないとなかなか思い出せないのだが、なるべく手元にある写真を基に想い出を書いていきたいと思う。

片山(蛭子社と峠入り口の中間の山)から神宮寺・中州・中金子方面を写した(1958年頃)

神宮寺という部落には、長沢・南町・仲町・宮の脇・宮田渡という町名があった。神宮寺というのは、住所名でも何でもない。法華寺の東側に並んで神宮寺がありその門前町であったから、便宜的に呼んでいた名前であったのだろう。僕らは、「じんぐうじ」と言わずに「じぐじ」と呼んでいた。勿論僕は今でもそう呼んでいる。

神宮寺の地名は、明治まであった神宮寺の門前町であった事に由来する。神宮寺とは、神仏習合で神社に付属して造られた寺院の事だ。この神宮寺は、諏訪神社よりも栄えたといわれている。しかし明治以降廃仏毀釈により、神宮寺の中心・大坊に付属する宮寺であった法華寺を除き、全てが取り壊される事になった。

現存する法華寺

古い地図を見ると、かつてここには五重塔・普賢堂・鐘楼・釈迦堂・阿弥陀堂・上り仁王門・下り仁王門などがあった事がわかる。

これは、我が家が所在している五重塔の寸法図。

神宮寺は若宮社と下り仁王門との間に建っていた。現在は建物もなく、かつてここに大伽藍が建っていたとは想像すらできない。

ただ神苑(それらの建物が建っていた跡地)は市街地を一望できる場所でもあり、登ってみる価値はある。

下り仁王門を登っていくと、杉の木が四本立っている。

昔は五本杉だったが、落雷で四本になった。

この前に土俵があり、ここで十五夜相撲が行われていた。僕も参加した記憶がある。

五重塔跡から普賢堂跡の方向を写す

木々の隙間から見える市街地

<中州・神宮寺で思い出す事>

話は戻すが、僕の住んでいた長沢(ながっさわ)という所は、茅野市の高部と隣接する場所で諏訪の外れであった。高部との境には、西沢川が流れていた。その川は珍しい川で、天井川と呼ばれ道路の上を流れていた。

右手前にある松は我が家である。そこから高部方面を写している。左奥に天井川が道路の上にあるのがわかるだろう。神宮寺は山裾にへばりついたような村で、西沢・女沢・滝沢・権現沢と呼ばれる沢があり、その一つ一つにこんな天井川があったと父が話していた。最後まで残ったこの天井川も1990年には治水工事の為、土手が削られ道路の下を流れるようになった。その為か共同の貯水池に水が来なくなり、我が家の井戸や洗い場が使えなくなってしまった。
※我が家の歴史はこちらから。『我が家「守矢家」の記憶 鹿食免①』

1979年頃

今でも周りの家を苗字で呼ばず、足袋屋・金物屋・種屋・タマリ屋・氷屋・森田屋(我が家)・えびす屋等と屋号で呼びあっている様に、昔商売をしていた家が多く道を挟んで建っていた。大晦日には、家の前の道を上社へ二年参り【年をまたいで参拝するので、二年参りと言った】に行く人達が多く歩いた。

1958年。道路は舗装されていなかったので、今でも膝小僧には倒れてついた傷が消えずに残る。

この辺りは、守屋山がすぐ後ろに迫っている場所で、夕方はすぐ日が落ちてしまい、早くに薄暗くなった記憶がある。ただ山から受ける恵みは多く、キノコ狩り・フキノトウ採りをしたり秘密基地を作ったりと、よい遊び場を提供してもくれた。冬は、そりやスキーをよくやった。

赤凪橋から下りてくる道や片山から裏の畑への道が、絶好のスロープだった。(1956年)

伸び伸びと育ててくれた自然あふれる故郷。いまだにアクセントが違うと笑われる言葉使いも、僕にとってはかけがえのない宝物である。

我が家(1989年頃)

<第二室戸台風の記憶>

そんな12年の生活の中で、最も強烈な印象に残っているのは昭和36年9月16日台風18号が諏訪地方を襲った時の事だ。当時の切り抜きがある。被害は神宮寺のみならず、下金子・福島など26軒が被害にあったようだ。

昭和36年(1961年)9月18日(南信日々新聞)長野日報社掲載記事より

当時僕は中州小学校三年生だった。その日は、峠(注)の美登子さんが父に勉強を教わりに来ていた。僕も隣で一緒に勉強をしていたのだろうと思う。三人で坪庭に面した上座敷にいた。風が物凄く強く吹いていたのを覚えている。なにせ、雨戸もないガラス戸だけの家である。ガタガタと家中が音を立てていた。その風の勢いが強くなったと思ったら、父と美登子さんが「ワッ」と大声を出し蔵の方を見た。僕も蔵を見た。すると、屋根が蔵と我が家の間に壁の様に立っていた。父は慌てて外に飛び出て行ったが、僕らは怖くて動けなかった。美登子さんは、屋根がふわりと浮き上がって落ちたところを見たようだ。
※(注)「峠」というのは、どうも屋号だったようだ。昔から「峠の●●ちゃん」という名称で呼んでいた。最近手に入れた「語り継ぎ神宮寺の民俗」で見ると、昔は川魚屋で通称【峠屋】と言ったらしい。だからなのかと納得した。母の従妹がお嫁さんで来ているから、遠い親戚でもある。

蔵の屋根はただ上にのせてあるだけなので、持ち上げる風には弱いのだ。

台風の時の事を、父が細かく書き残しているものがあったので、書いておくことにする。
『昭和36年9月16日台風18号が諏訪地方を襲った時の事だ。午後4時20分頃の測候所の観測では、最大風速29.1ⅿと記録にある。この日は笠原の美登子さんが来て、その勉強を見てあげていた時の事だ。風があまりにも強いので、気になって時々坪庭の方を見ていた。そのうちにひどい状態になったので、二人とも落ち着かなくなり庭を見た瞬間、目の前の土蔵の屋根がフワッと浮き上がった。アッと驚いた途端に屋根の端が直ぐ脇の大きな檜の木に引っかかって、屋根は垂直に立ちそのままストンと落ちた。

母屋から井戸の屋根の上に乗った蔵の屋根を見る。

慌てて行ってみると、屋根は檜で遮られ蔵と庭木の間に落ち・向きを変えて、東側の蔵の入り口のたたきの屋根を壊し、少し離れた井戸の屋根の上にのしかかっていた。東南の風で、本来なら母屋かもしくは隣の家の方向にでも飛ぶはずだったものが、檜にかかったおかげで別の方向に崩れ落ちたのだ。その為、幸いにも被害は蔵の周りの部分だけで済んだのである。

母屋に向かって、蔵の屋根と井戸を見る。

我が家は部落の一番初めあたりで、ここから竜巻ほどではないにしろ帯状に突風が吹き抜けたらしく、神宮寺では10戸・中州全体で26戸が被害にあった。多くは蔵の屋根が飛んだものである。そのまま放置するわけにもいかないので、親戚である「峠の笠原貞友さん」が宮大工だったこともありお願いすることにした。幸いなことに砕けたりした部分は少なく、トタンも使える状態であった。田舎の人情の温かさというべきか笠原さんの指揮で、近所の方々が無料奉仕をしてくれた。本当にありがたいことだ。』

この時かかった費用は、二万五千円位であったらしい。教師をしていた父の当時の給料が四万五千円位だったという事だから、屋根一つとは言うものの、全部新しくして人件費もという事になったら、結構大変な出費になっていただろう。特別にお願いした人は別として、近所の人たちは無料奉仕をしてくれたという。今でいうボランティアである。こういう時の地域のつながりは、田舎ならではだと思う。感謝しかない。

当時の新聞記事を読んでみると、諏訪市で一番被害を受けたのが中洲地区だったようだ。被害を受けた家のほとんどが土蔵や居宅の屋根の全半壊。竜巻が起きたのだろう。南から北へ向かってつむじ風が起きたという。そして「大工不足・トタン不足に加え、十万・二十万という金額がかかる為か、資金不足で本工事が出来ないでいる」という記載がある。その中でかろうじて屋根にさほどのダメージもなく、近くにいた親戚が大工で早くから修理を始める事が出来たのは、ひとえに運が良かったというしかない。

元に戻された屋根は、左右八か所を、太い針金で土台石にくくって飛ばされる事の無いようにされた。ただ蔵の二階に上がる度に目にする、雨水にさらされた為に梁や柱に付いたシミは、いつも当時の事を思い起こさせた。この左十字の紋は、我が家が神長官守矢家から分かれた事を証明してくれている物であり、諏訪ではここでしか見ることが出来ないので、よくぞ被害が屋根のみであってくれて良かったと思うのである。この左十字の紋については、またの機会に書きたいと思っている。

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ライター紹介 守矢正

1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。
1964年清陵高校の教師であった父が、東京で学校創立に参加する為一家五人で東京へ引っ越し、その中高一貫教育の学校に入学・卒業。日本大学文理学部に入学・卒業し、東急百貨店東横店に入社。そこで40年無事勤務し退社。
我が家が神長官の分家である事から家史を調べたり、諏訪に魅かれて父が残したコレクションを基に色々な角度から、故郷に思いを巡らせる日々を過ごしている。

SPOT INFORMATION

法華寺

諏訪大社上社本宮のすぐそばにある法華寺は、比叡山の開祖である伝教大師によって開山したと伝えられるお寺です。
かつては諏訪大社上社の神宮寺として栄えていましたが、明治の廃仏毀釈によって廃寺に。
その後、明治5年から約50年の間、神宮寺小学校の校舎として使われていましたが、平成11年には火事によって焼失。本堂などは平成17年に再建されています。
歴史的には「赤穂事件」や「本能寺の変」と深く関わりのある場所です。

住所
長野県諏訪市中州神宮寺856
電話番号
0266-52-3361
アクセス
"中央自動車道 諏訪ICから 2km 8分
JR中央本線 上諏訪駅下車 バス30分"
               

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