☑諏訪にいた少女が、京都へ行って和泉式部になった!?
☑花屋茂七館の館主さんが書いた『お地蔵さまとかね』
☑温泉寺に伝わる和泉式部の墓に行ってみました。
諏訪に伝わる民話、伝説の舞台を巡るお散歩の2回目です。
※1回目のお散歩は『岡谷湊地区西街道で、あじさい寺へ』でした。
テーマは「諏訪の和泉式部伝説」。
え? 和泉式部って諏訪の出身なの? あの平安時代に活躍した有名歌人が?
司書である筆者自身、図書館に来たご利用者さんに「和泉式部のお墓があると聞いたのですが、どこにありますか?」と質問されて調べるまで、実は知りませんでした…。
和泉式部とは?
和泉式部は物の本によれば、平安時代の歌人で、越前守大江雅致の娘、とあります。
百人一首をしたことのある方なら、この歌をご存知ではないでしょうか。
「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」
こちらは「もう生きていなくなっているかもしれない、あの世への思い出として、もう一度あなたにお会いしたいものです」という情熱的な歌です。
白州正子さんの『私の百人一首』という本によると、和泉式部は美人で才女で、恋愛遍歴の多い方だったようです。
短歌の才能は素晴らしく、自分の子である小式部内侍(この方も百人一首に歌があります)を早くに亡くしており、子に対する歌、恋愛の歌は天性の物があると白州さんは述べていました。
こんな人の伝説が、なぜ諏訪に残っているのでしょうか? 大変興味が湧きました。
調べてみると伝説のヒントになりそうなお話が下諏訪にありました!
それが、下諏訪宿横町木の下まちづくり協議会さんが出している絵本『お地蔵様とかね』です。
ということで、諏訪大社下社秋宮から、この絵本を書かれた『花屋茂七館』までお散歩して行きましょう!
和泉式部伝説を知る散歩道
下社秋宮から、花屋茂七館まで400m、およそ5分の道のりです。
スタートは下社秋宮です。
下社春宮の方に向かって歩いて行きますと、すぐに老舗の和菓子店『新鶴本店』が見えてきます。
新鶴さんといえば塩羊羹でしょう。
県外の方にお土産として持って行くと大変喜ばれるので、重宝しています!
塩羊羹も美味しいのですが、私は季節の和菓子が好きです。「今の季節は何が出ているのかな?」とショーケースをのぞくのが楽しみです。
新鶴さんを過ぎると、甲州街道と中山道の合流地です。
この駐車場には、下諏訪温泉のはじまりと言われている『綿の湯』の源湯があります。
この場所は江戸時代には、「小湯」と呼ばれる銭湯があったそうで、その賑わいの様子がパネルになって掲示されています。
綿の湯を右手に見ながら歩いて行くと、下諏訪宿最大の宿場である、『本陣 岩波家』の門が見えます。
道の向こうには脇本陣だった『御宿まるや』、綿の湯を源泉とした『みなとや旅館』などが軒を連ねます。
下諏訪宿について知りたい時は、ぜひ『宿場街道資料館』に行ってみて下さい。下諏訪宿の面白さを再発見できます。
紹介したいところが目白押しですが、長くなるのでこの辺で。和泉式部伝説を書かれた館主のいらっしゃる『花屋茂七館』へ向かいます。
本陣 岩波家を右手に見ながら進んで行くと、分岐があります。
この角に、花屋茂七館があります。到着です!
絵本になった和泉式部物語とは?
こちらの館主さんが書かれたのが、絵本『お地蔵さまとかね』です。
作者を見ると、『作 横地民雄 絵 宮原寿奉』というお名前でした。
さっそく、横地さんをお尋ねしたら…
なんとこの横地さん! 私が中学時代に理科を教わった、小松秀夫先生でした!
『横地民雄』はペンネームだったんですね。びっくり!
小松先生に絵本を見せていただきました。物語を要約するとこんな感じです。
お地蔵さまとかね
諏訪の金子村のかねという女の子が、両親を亡くし、下諏訪のお役人の家で働くことになります。
かねはお地蔵さまに自分の弁当をお供えするような信心深い娘ですが、意地悪な友だちに役人夫婦に仕事をさぼっていると告げ口され、焼けた火ばしをひたいに押し付けられ、やけどをしてしまいます。
お地蔵さんの前で泣いて、しばらくして顔を上げると、お地蔵さまのひたいに傷が移り、自分のひたいは治っていました。
これを見た夫婦は改心して、かねをかわいがったそうです。
かねは美人として有名になり、京へ召されて和泉式部となった、という伝説です。
小松先生がお話の元となっている貴重な資料を見せて下さいました。許可を得て写真を掲載します。
印刷はおそらく最近(昭和になってから?)かもしれませんが、裏書きに享保14年(1729年)再々刻とあり、それより昔から伝わる縁起話であると考えられるそうです。
かねの絵本には載っていない、後日談が書かれています。
和泉式部の死後、式部の庵を夫が尋ねた時、そこにあったお地蔵様が「もとの場所に戻して欲しい」と言い、下諏訪の寺に納められたとのこと。
さらには「温泉鎮守御本尊」という記述もありました。後ほど諏訪の温泉寺にも訪れたいと思います。
花屋茂七館では、知らなかったお話をたくさん聞く事ができました。
それにしても、和泉式部の伝説が日本の何ヶ所かにある中で、なぜ諏訪の“かね”という娘と結びついたのでしょうか?
小松先生は、「早くに亡くなってしまった子どもを救うというお地蔵さまの信仰に、かねという娘の傷を身代わりに受けたという話が結びついたのかもしれない」と仰っていました。
余談ですが、花屋茂七館には、木喰上人という彫仏師が彫った『木喰仏』が安置されています。こちらもぜひ、見に行ってみて下さい。
木喰上人についても『仏になって仏を彫った木喰上人』という絵本になっています。
地域の中でも『お地蔵様とかね』の伝説や、下諏訪に滞在した木喰上人について知らない方も増えてきているそうです。
小松先生はぜひこういうお話があったことを、地域のために残していきたいと仰っていました。
※絵本は、残念ながら売り切れとのことですので、図書館で借りてみて下さい。
和泉式部のお墓がある温泉寺へ
次は、和泉式部のお墓があるという諏訪市の『温泉寺』
に行ってみました。
上諏訪駅から温泉寺まで800m、およそ13分の道のりです。
散歩道やお寺については、温泉寺の奥様が詳しく書かれていますので、ぜひご覧ください。
『上諏訪駅から歴史を辿る散歩道!in温泉寺』
和泉式部のお墓を探して、お寺の裏山へと向かいます。
多宝塔を左手に見ながら、更に上の墓地の方へ。
お墓の案内看板が見えてきます。
ありました! これが和泉式部のお墓だそうです。合掌。
それにしても、なぜ温泉寺にお墓があるのでしょうか? 温泉寺の奥様に伺いました。
「温泉寺の言い伝えですが」と前置きした上で、話してくださいました。
「諏訪家の殿様が京都所司代(しょしだい)に上洛した時に、和泉式部が下諏訪出身だからと、京都の誓願寺にあった五輪塔と土を持ち帰り、菩提寺の温泉寺に祀ったとのことです。
最近まで誓願寺さんには土台のみだったらしいですが、今は持ち帰られた上の部分を作られたそうです」とのこと。
諏訪にも和泉式部のお墓があったとは! とても驚きました。
お寺様が江戸時代より守ってきて下さったからこそ、今の時代に和泉式部伝説が生きているのだと思います。
民俗学者・柳田國男は和泉式部をどうみていたか?
図書館にある本を調べていたら、和泉式部の民間伝承について、まとめられていた本がありました。
『定本 柳田國男集 第8巻』筑摩書房の中の、「女性と民間伝承」です。
その中に、「信州の諏訪でも和泉が立身の糸口に、詠んでほめられたという名歌が残って居たらしい」と書かれていました。(275p)
その歌とは、どの歌を指していたのでしょう?調べても出てきませんでした。
『柳田國男集第30巻 和泉式部』によると、京都の誠心院という寺と、誓願寺というお寺にも和泉式部の伝説が残っているそうです。
「どの話が本当なのか、はっきりはしない」と柳田國男は述べています。歴史ミステリーですね。今後の新たな発見に期待したいです。
歴史に名前が残っているのは偉い人など、ほんの一部です。
民話には、日本の歴史に欠かせない、名もない庶民の生活やルーツが書かれているのではないかと考えたのが、柳田國男でした。
余談ですがこの全集、昭和30年代に全31巻発行されています。改めて柳田國男という人の業績と研究内容の多さに圧倒されました。(ちょこっと見ただけですが💧)
諏訪にも貴重な民話がたくさん残っています。
コロナウイルスの感染予防のため旅行に出られない最近ですが、身近なところで〈時間旅行〉に出かけて、古の諏訪に思いを馳せてみませんか。
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https://www.facebook.com/onsenji.suwa
ライター紹介:河西 美奈子司書でスワんこプロジェクト(諏訪の文化を伝える紙芝居を作るグループ)リーダー。星と落語・講談が好きで、最近古道散歩にハマっています。 |