☑️約110年前、諏訪湖上で日本初のスケート大会が始まった。
☑️下駄スケートってどういう物?実際に履いて滑っていた。
☑️校庭に作ったスケートリンクで滑った想い出。
諏訪は僕の小学校時代(約60年前)は里でも雪が降り、寒さはひとしおだった。
今は里ではあまり雪は降らず、冬でも冬タイヤを履かないで来る観光客もいるようだ。ドカ雪にならなければ、それですんでしまうかもしれない。
我が家はサッシではなく、木枠のガラス戸で雨戸もない家だった。
雪の朝でも、顔を洗いに行くのは井戸。家の中では、暖をとるのは火鉢と炬燵だけであった。
寒くないわけがない。それが当たり前だったのだ。
そのうちに灯油のストーブが登場した。その暖かさに感動したものだ。学校では薪ストーブが活躍していた。弁当をストーブの周りにおいて、温めていたりしたものだ。
雪が降ると友達と雪だるまやかまくらを作ったり、畑にスロープを作ってスキーやそりで遊んだものだ。むろん学校でも、休み時間に雪と戯れて遊びまわった。
ウィンタースポーツといわれて、すぐ頭に浮かぶものはスケートである。学校の校庭や諏訪湖・果ては田んぼで滑った思い出がある。
最近の諏訪湖といえば、氷上の遊びが話題になることがない。凍る時期になると、話題に上がるのは御神渡り(おみわたり)ができるのかどうかだ。
※御神渡りとは、諏訪湖の湖面が全面結氷してひびわれが生じ、再び結氷して朝氷が膨張し、割れ目の部分を押し上げてできた氷堤の事を指す。諏訪大社の祭神が上社から下社へ渡った跡と言われており、この亀裂の方向で吉凶を占うものだ。この諏訪湖の御神渡り神事を司っているのが、諏訪市小和田の八剱神社である。(写真:2018年)
僕らの小さい頃はできるのが当たり前だったが、今は温暖化の影響もあって、なかなかできなくてハラハラする。昔は諏訪湖も全面結氷したので、スケートをすることができた。連れて行ってもらって、滑った覚えがある。
ただ危険もあった。釜口水門辺りにはお湯が湧き出ているところがあり、氷に穴が空いているところがあった。「ここに人が落ちると上がれなくて、死んでしまうから気を付けるように」と、言われた事もあったような記憶がある。
とにかく暖冬の影響で、昔の風物詩が失われていくのは悲しい。
日本初! 諏訪湖で行われたスケート大会
その昔、諏訪湖の氷上ではフィギュアやスピードスケートを楽しむイベントが開催されていた。
この諏訪湖は日本のスケート競技大会発祥の地でもある。日本で初めてのスケート大会が行われたのが諏訪湖で、じつに明治42年(1909年)2月14日の事なのだ。その当時、「第1回諏訪湖1周スケート大会」は出場者や観客全部合わせて1万人という大規模な大会だったようである。
その火付け役となったのが、明治39年(1906年) 下駄の底に鉄製の刃をつけた「カネヤマ式下駄スケート」を発明した、長野県下諏訪町の飾り職人・河西準乃助であった。
この下駄スケートは、諏訪湖に来たスケート愛好家の間で急速に広まり、次第にスケートが競技スポーツへと発展していくきっかけとなったという。
ちなみにこの大会は、大正5年からは開催されていない。
さて、この再登場のホテル鷺の湯のハガキの右上にあるスケートのシーンは、下駄スケートを履いているようだ。
分かりづらいが、足の部分にひも状の白いものが見える。当時の長野新報の記事の写真は、これと同じもののようだが、もう少しはっきりとしていた。
これがどうも第1回諏訪湖1周スケート大会の時の写真らしい。
小学校の校庭に作ったスケートリンク
では、次に母校である諏訪の中州小学校のスケートリンクについて少し書いておこう。
僕が通っていた中州小学校は校庭の裏手に宮川が流れていたので、冬になると校庭の外周を掘って深い溝と土手を作りそこに宮川から水を取り入れ、水を満々と溜めた。
そこが何になるかというと、氷をはってスケートリンクに変身を遂げるのである。他の小学校が同様なことができたかは甚だ疑問であるが、条件が揃えば可能であったろう。
冬は校庭での遊びは、当然スケートになるのだ。そして小さい頃僕が履いていたのが、下駄スケートである。家を処分するときに、現物は諏訪市博物館に寄贈したが、写真をご覧いただこう。
靴スケートは高価であった為、僕は買ってもらえなかった。中古の靴スケートを親戚から貰う小学校高学年まで、この下駄スケートを履いていた。
下駄スケートとは名前の通り、下駄の歯の部分に鉄のエッジがついていて、これを平打ちの紐で足に縛り付けるのである。要は、草履をはく時の要領である。しかし子どもの力で締め付けるには限界があって、しばらく滑ると緩んできて又締め直す事の繰り返しであった。
もちろん足袋でなくては下駄を履くことはできないので、足元は足袋である。長い間滑っているのは楽ではなかったが、上手な人たちは靴スケートとあまり変わらないフォームで格好よく滑っていた。
これは小学校時代の僕(一番左)の写真である。友人は靴スケートだが、僕は下駄スケートである。その違いは足先を見れば、歴然としている。格好から違うのである。
さらに、近くの田んぼもスケート場になる。写真がないので恐縮だがどういうことかというと、稲を刈り取った後の田んぼに水をはり凍らせてスケートができる環境を作ってくれるのである。大体そうなる場所は毎年決まっていたので、家に帰ってからも滑りに行けた。画期的だったのだ。
唯一難点だったのは天気のいい日が続くと、刈り取った稲の株のあたりから溶けてしまい、穴がぼこぼこ空いてしまう事だった。
蓼科湖や白樺湖でもスケートはできた。家族で出かけては滑った。この頃僕は靴スケートだったが、弟はまだ下駄スケートを履いていた。
大自然の中で天然のリンクで滑るのは、気持ちいいものだった。いい時代だったのだ。少し後傾気味であるが、まずまずの滑りだろうと自負している。
子どもの頃培われた経験は、消える事がない。スキーにしろスケートにしろ、東京に出てから10年近く経って友人達とスキーに行ってもそこそこ滑ることができた。中学になった娘とその友人達を連れ、スキーを教えに行った事もある。ただスケートは苦手であったので、あまり率先してやらなかったが。
おかげでスキーは63歳になるまで50年以上は滑り続けていられたし、スノーボードも両立し20年のキャリアを持つことができた。ひとえに育ててくれた故郷のおかげだと、感謝している。
昔と同じ環境にはないものの、楽しむ気持ちは何時も持ち続けていたいものである。
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ライター紹介 守矢 正1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。 |