セピア色の記憶6
「諏訪」神宮寺の子供祭

☑️ 高部から上社への道にある、道祖神が立つ「分去(わかされ)」という場所の持つ意味は。
☑️ 【天神様】や【どんど焼き】は、なぜか子どもだけの祭りだった。
☑️ 北斗神社は狭いスペースに、五つの社の建つ不思議な場所。

北斗神社から、わかされを見下ろす。

高部から諏訪大社上社へ行く途中に、道祖神が立つ「分去(わかされ)」という場所がある。
ここに立って左の山を見上げると、北斗神社を見ることができる。小学校時代にはよく友達とあがったものだ。父の子供の頃はジグザグに登る道しかなかったようだが、僕の小さい頃は垂直に登っていく階段があった。だがその階段も冬は凍り付き、何かにつかまなければ登れないほどで、ほとんど迂回路を使った。

しかし、分去(わかされ)という場所も不思議な場所だ。道祖神が立つのだから、特別な意味を持っているのだろう。
左の道は八幡坂を登り、鳥居をくぐり東鳥居・本宮へと向かう。ここで二つに分かれるのである。「分かれて去る」場所なのだろうか…。興味は尽きない。

分去(わかされ)左遠くに八幡坂の鳥居が見える。

調べると「《群馬から長野にかけての方言》道が左右に分かれるところ。分かれ道。追分。」という記述を見つけた。固有名詞としては、軽井沢町追分の中山道と北国街道との分岐点を言うらしい。
ここには方向を示す石碑はないが、道祖神がその代わりなのだろう。僕の子供の頃、この分去(わかされ)では正月に「どんど焼き」をやった。「どんど焼き」は、僕の記憶では一度だと思うが、父の頃は2回行われたようだ。父が日記にこう書き残している。

《一月七日に、子供達が部落の家々を回り門松や注連飾りを集めて、辻の道祖神の前で焼くのである。しめ縄についていたミカンや干し柿・昆布などはあらかじめ外して、それを皆で分けた。
各家に集めに行くと、しめ縄飾りの他にお駄賃にとミカンや干し柿などがもらえた。昆布を火であぶって食べるのが楽しみだった。
一月十四日には、二度目のどんど焼きがある。今度は家の中にあるお飾りを集め、辻で焼いた。
焼いている間に厄年の男女が来て、お金やミカンやお菓子などを投げるのである。雪深い時には、雪の中にお金が紛れ込むことも多かったが、皆で争って拾った。》

とある。

僕の記憶では、そのあたりが定かではない。確かに『わかされ』と呼ぶ北斗様の下のあたりの辻でやったことは覚えている。それは14日一度きりだったと思う。

皆でしめ縄を集め、ミカンや干し柿を分けて食べて、厄年の人が餅やお金を撒いた。道脇の家の二階か屋根から撒いていた記憶がある。それは確かだ。イメージは、節分の豆まきや建て前の時の餅撒きである。もしかしたら、最初に集めた門松やしめ縄などは一旦どこかに集めて置き、14日に一緒に焼いたのかもしれない。頼りない記憶だが仕方がない。

僕の記憶にはあまり「天神様」の祭の記憶はないが、ただ「天神様という人は、御名は菅原道真公、学問深く徳高く、君に忠義の心篤く…」という歌を歌った記憶があり、その歌を今でもよく覚えていて歌える。父の記憶を辿りながら、書いておくことにする。

北斗神社へ直登する険しい石段

天神様の祠は、どんど焼きをする辻の脇、直登困難なほどの急斜面をえぐり取ったような狭い台地に、北斗神社の祠と並んで北を向いている。その脇には蚕玉神社の二間四方の御堂がある。真下からジグザグに上がる狭い道とまっすぐに登れる石段があった。

石段の方は戦後につくられたが、冬には凍りついてよく崩れてしまったようだ。この祭りにしろ、稲虫祭やどんど焼きなどの祭は日常的な組織ではなかったようだが、大体6年生が指導者でその中に親方がいたという。「天神様」は、何日かにわたってやった相当大掛かりなものだった様だ。

準備期間に稲架などに使う丸太を担ぎ上げて、蚕玉様の御堂の脇地に二階建ての櫓を組んで、周りを杉の葉で囲う。二階には太鼓が置かれ、学年上位から使用する場所が決められいろいろな事をして遊んだ。
この祭りの最後に、皆が祠の前に整列し、親方の音頭で天神様の歌を歌った。その後下に降りて世話役の家へ行き、紙袋に入ったお菓子をご褒美にいただくという事が楽しかった。
祭の間中何をやっていたのかほとんど忘れてしまったが、お堂の暗い物入れの中にもぐり、ろうそくをつけたりして遊んだ記憶がある。

と、父は書き残している。この祭りが終わると新学期になるという事なので、ひょっとすると子供達の成長の様子を、学問の神様である天神様に見せるためのものだったのではないだろうかと想像するしかない。

しかしこの険しい階段から眺める限り、その場所は良く見えない。それだけの事ができたのかを想像するのは難しい。という事で、実際どんな場所なのかを見ておこうと思う。

北斗神社のある片山の上縁に祀られているもの。

雪の降る日の写真で申し訳ないが、階段を登った正面に北斗の社。右に並んで天神社。左に秋葉・三峯・金毘羅を祀る「三社」がある。さらにその左に「奉献泰一社・物部安貞」と彫られた灯篭がある。不思議な取り合わせだが、何を目的につくられたのかが分からない場所だと思う。

奥に蚕玉社の御堂・手前が北斗神社。結構な広さがある。

中央にあるのが片山の岩盤を削り取って納めたであろうという北斗神社がある。北を向いている。
社殿は堅牢な鉄格子の扉、中にはステンレスの網で囲われた本殿がある。
それにしても、額に書いてある「北斗神社」の文字だけが全てなので、その祭神が何なのかが分からない。
おそらく北斗星に関係あるのではないかと思うのだが、僕は聞いた事はない。

蚕玉社の御堂と北斗社の間に、広い盆地の様なスペースがある。蚕玉社が二間四方の御堂らしいので、「天神様」で櫓を建てるくらの事は楽にできたであろうと思う。

ここで「天神様」という子供祭が行われたのだ。世話人がついていたようだが、よくもまあ子供達だけでやれたものだと、思う。こういったことを、組を作り頭(リーダー)を立ててやるのだから、地域の子供達の絆はより強くなった事だろうと思う。それが狙いであったろう。

分去(わかされ)の道祖神

分去(わかされ)にある道祖神は、おそらく路傍の神である。
村の守り神・悪霊が侵入するのを防ぎ、通行人や村人を災難から守るために村境・峠・辻などに祭られる神。
もしかしたら、上社へ悪霊が侵入するのを防いでいたのだろうか。そして調べてみると、どんど焼きは小正月の道祖神祭行事だという。そして14歳までの子供や青年団が中心となりやるものらしい。
子供たちに自主性を植え付ける、素晴らしい地域活性の取り組みではないかと思う。

そうそう、諏訪大社上社に行ったときは北斗神社も見に行くことをお勧めする。石段は急だが登りは何とかなるだろう。でも帰りは迂回路を使う事をお勧めする。度胸試しになってしまいかねないからだ。

稲虫祭の先触れ太鼓が通る。見ているのは弟と祖母。

さて、この北斗神社に集まってする行事には「稲虫祭」という物もある。これも子供達だけでやる祭りであるが、それは次のお楽しみ。

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ライター紹介 守矢 正

1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。
1964年清陵高校の教師であった父が、東京で学校創立に参加する為一家五人で東京へ引っ越し、その中高一貫教育の学校に入学・卒業。日本大学文理学部に入学・卒業し、東急百貨店東横店に入社。そこで40年無事勤務し退社。
我が家が神長官の分家である事から家史を調べたり、諏訪に魅かれて父が残したコレクションを基に色々な角度から、故郷に思いを巡らせる日々を過ごしている。

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