セピア色の記憶7
「諏訪」神宮寺の稲虫祭

☑️主役は子ども。稲の害虫やイモチ病などを追い払う『稲虫祭』ってどんな祭?
☑️金色に輝く田んぼで獲った『イナゴ』は、佃煮になって僕らのお腹の中に。
☑️父の日記に書いてあった『乳穂』ってなんだ? 調べたら奥深かった。

主役は子ども。稲の害虫やイモチ病などを追い払う『稲虫祭』ってどんな祭?

田植えがすんで、稲が真夏の成長期にかかる7月の初めに『稲虫祭』が行われる。これもどんど焼きや天神様と同じで、子どもだけの自主的な行事であった。
この祭りは簡単に言えば、部落中の子ども達が自分たちの手作りの大きな旗を担いで、鐘や太鼓を鳴らして部落の田んぼの畦道を踏み鳴らして行進するという行事である。

その時に「イーネムシ、オ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)。ナーニムシ、オ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)。〇〇ノ田圃ヘオ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)」と大きな声ではやし立てるのである。
〇〇には、隣の部落、たとえば高部・田邉などの名前が入った。

始まりは、豊作を願って稲の害虫やイモチ病などを追い払う行事だろう。この祭りも準備は天神様脇の蚕玉社が基地になった。ここで、祭用の旗を作るのである。

蚕玉社(こだましゃ)

旗は大旗・中旗・小旗の三種類。大中の旗は、竿につけて担ぐので、風で破れない様に丈夫な和紙を何枚も貼り繋いで作った。その枚数で、20枚貼りとか30枚貼りとか言った。旗には墨で稲虫祭とか虫祭とか大きく書き、僕らは「長沢少年団」と所属を書いた。

神宮寺には「長沢」「南町」「仲町」「宮之脇」「宮田渡」という町名があり、それぞれの旗の製作は秘密。当日が発表競演会になるので、何日にも渡って、熱心に打ち込んだ覚えがある。
大旗は蚕玉社では作れないので、集会所や近所の家の板張り間を貸してもらって作ったりもした。当日の役割分担は、親方によって学年別に平等に決められたようだ。

早朝暗いうちに集合場所の河原崎の鳥居の辺りに集まり、初めて各地区の旗が披露された。それぞれに色の組み合わせや吹き付け方に特徴があるが、「竹筒に布を巻き・色水を付け・紙に吹き付ける。」というのが一般的だった。

各町内の先頭から一列に並んで、西の宮之脇から隣村に向かって行進が始まるのだ。
まだ薄暗い畦道を、隣村田辺に向かって「イーネムシ、オ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)。ナーニムシ、オ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)。田辺ノ田圃ヘオ送リナ(ドーン・ドーン・ドン・ドン・ドン)。」と囃し立てながら、行進するのだ。

昔は小石などを持って隣村と喧嘩になったという事もあったようだ。その為か斥候役(注)がいて、村境の情報を伝えて来たりしたようだ。
夜明けとともに、今度は東へと進む。宮川と西沢川という川の合流地点にある釜口水門が目的地である。ここから各隊伍は各々の町内へ畦道を帰るのである。

町内に入る頃になると、朝日が輝き皆も見物に出てくるので、小旗を配る係が忙しくなる。ひとしきり町内を回って解散し、家に帰って朝飯となる。その後世話役の家に行き、褒美の菓子袋をいただくのである。

(注)斥候(せっこう):敵の様子をさぐること。また、その人。ー広辞苑

***

こう父が書き残している。【前回の子ども祭についての記事はこちらから。】
実は、僕はよく覚えていないのだ。ただ、蚕玉社の中で旗を作った事は鮮明に覚えている。大旗は布を使ったりしていたのではないだろうか。

皆に配る小旗は紙で、棒は割り箸を使っていた。色付けは一緒である。絵具を溶いた入れ物に、筒を漬け紙の上に一気に吹いた。文字以外はすべてその方式だったと思う。斥候役はいなかったが、きっとそれほど重要なポジションにいなかったのだろう。

僕はこの写真の中では、中旗を担いでいる。太鼓役をやってみたかった。でも腰の所に小旗をさし、沿道の人に差し出す時の気持ちよさは今でも鮮明だ。

父たちの頃は女子は参加できなかったようだが、僕らの時代には女子も参加していた。そうしたことで、村の自治や伝統教育の機会になっていたのかもしれない。

金色に輝く田んぼで獲った『イナゴ』は、佃煮になって僕らのお腹の中に。

さて、稲虫祭が済み、稲が順調に育ち、刈り取りが終わり、稲架にかけられた稲穂が並んでいる景色は実にいいものだ。

この実り豊かな田んぼには、もう一つ副産物が隠れていた。ご存じだと思うが、『蜂の子・イナゴの佃煮・ザザ虫』という三大珍味の中の、イナゴである。ちょっとグロテスクであるが、写真がある。

蜂の子は、家の軒先に出来た蜂の巣を焼いて中をほじり取り出した。そのまま食べた記憶もあるが、今は無理だ!!
ザザ虫は、さらにきつい。よく渓流釣りをしたので、その餌としては最高だったが、食べることはしなかった。

どれも栄養価は抜群なのだろう。信州のような寒い山国では、『イナゴ』も大切な食糧で、元手のいらない獲物であった。この大好きな佃煮の原料となる『イナゴ』がワシャワシャといたのである。

イナゴ獲りも子ども達の仕事だった。袋をランドセルに入れて、下校時に獲って帰ったのを覚えている。父などは、昼休みに近くの田んぼでイナゴ獲りに夢中になり、午後の授業に間に合わず先生に怒鳴られた経験を持っていたようだ。

イナゴは畦道を歩いていると、飛び出したイナゴを踏みつけてしまうくらいウジャウジャいたと聞く。僕らも下校時や家に帰ってから獲った。それを祖母に渡すと、袋のまま熱湯につけて丸ごと佃煮にしてくれた。それを食べるのが楽しみだった。今では、ソフトクリームに混ぜたり・刺したりして売っているところもあるようだ。(【衝撃!】イナゴがたっぷり……『バッタソフト』『バッタおやき』(諏訪湖)

いずれにしろ、田圃は米を作るだけでなく副産物を生み出す場所であったのだ。そこを守る意味での、稲虫祭であったのだと、今になって思う。
近くを流れる川、宮川には鮠(はや)などの魚がいて、それを父や祖父が獲ってくる。すると母や祖母が焼いたり・甘辛く煮たりしてくれる。それが、三時のおやつや夕食の食卓に乗るのだ。食材を自分で獲って、食べるという食育をされていたのだろうか。
いずれにしろ、いい経験をしたものだと思っている。良き里山・良き故郷に感謝しかない。

父の日記に書いてあった『乳穂』ってなんだ? 調べたら奥深かった。

稲つながりでもう一つ。父の書き残した物の中に、稲にまつわる乳穂(にほ)という物があった。子どもの頃、田んぼにはこんな形のものが並んでいた記憶がある。

これは刈取った稲穂または脱穀後の稲藁を、円形や円錐形に積み上げたものの様だ。父はこの中に潜って遊んだと書いている。

辞書で調べると、「ニオは元来ニイナメ。ニエ・ニュウなどの古語と脈絡のあることばで,田の神に穂つきのままの稲を供えたものであろうといい,ワラトベやススキは田の神降臨の依り代であろうという。稲積みをニオ・ニュウなどという呼称は田の神に新穀を供する意とともに,穀霊誕生の儀礼が古くは稲積みを中心にして行われていたのではないかと思われる。現在では稲穂のままを積んだニオは廃れ,稲藁だけを積んでおく貯蔵法が広く行われている。」とあり,他の辞典類にもこれと似通う解説がみえる。

稲積みや藁積みを、ニホ・ニエ・シラなどとあらわす事があるようで、父はここから乳穂を「にほ」と呼んだのだろう。

昔はほとんどの田んぼで見たものだが、友人に乳穂の写真を頼んだところ、神宮寺にはなく原村の方まで行ってくれたようだ。僕らの小さい頃見た景色は、いろいろと変わっているようだ。

しかしこの形を見ていたら、なぜか石棒に似ているんじゃないか?と思えてきた。しかも、カリのある石棒である。神の依り代としてのワラトベを積んで作るものなのだから、依り代同士似るのだろうか?
なにか心魅かれる乳穂である。そういえば前宮の所政社の神事や酉の祭の神事にも、稲穂は捧げられている。

やはり諏訪という土地は、なぜか魅かれるものに出会う所だ。毎回書くたびに次の謎が生まれて、飽きる事がない。ミシャクジ・石棒・神の依り代繋がると、楽しいなどと思い筆をおくことにする。

ライター紹介 守矢 正

1951年12月4日生まれ。小学校6年まで諏訪市中洲神宮寺の旧杖突街道入り口脇の家にて過ごす。
1964年清陵高校の教師であった父が、東京で学校創立に参加する為一家五人で東京へ引っ越し、その中高一貫教育の学校に入学・卒業。日本大学文理学部に入学・卒業し、東急百貨店東横店に入社。そこで40年無事勤務し退社。
我が家が神長官の分家である事から家史を調べたり、諏訪に魅かれて父が残したコレクションを基に色々な角度から、故郷に思いを巡らせる日々を過ごしている。

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