「諏訪大明神」と呼ばれ、軍神、武家の守護神としても崇められた諏訪大社とその神さまですが、その信仰はどのように形成され、根付いていったんでしょうか?
歴史が古く、まだ研究が進んでいない部分も少なくありませんが、ここでは現在わかっているその歴史のアウトラインをご紹介します。今回のプロジェクトで公開される仏像や仏具を見る際に、少し思い出していただいても面白いかもしれません。
「諏訪大明神」と呼ばれ、軍神、武家の守護神としても崇められた諏訪大社とその神さまですが、その信仰はどのように形成され、根付いていったんでしょうか?
歴史が古く、まだ研究が進んでいない部分も少なくありませんが、ここでは現在わかっているその歴史のアウトラインをご紹介します。今回のプロジェクトで公開される仏像や仏具を見る際に、少し思い出していただいても面白いかもしれません。
先史時代とは文献などが残っていない時代のこと。日本の場合だと旧石器時代から弥生時代までを指すのが一般的です。
文献がないためわからないことも多い時代ですが、諏訪地域は縄文時代の遺跡・痕跡が多く残っており、当時全国的にも異例の繁栄を誇っていたことがわかっています。当時石器などの主要材料であった黒曜石の産地であり、1万年以上にわたってその流通の中心地となっていたのが諏訪地域でした。
そうした背景から、人が集まる土地となり、縄文中期には高度な文化、信仰らしきものが花開いた痕跡も残されています。
こうした縄文時代の文化や原初的な信仰が諏訪信仰のルーツのひとつになっていると考える人もいますが、学問的には確かなことは言えません。ただし、先史時代に独自の文化が育まれたのは事実で、そうした歴史が様々な形で後の諏訪信仰の基盤となった可能性は否定できません。
文明というものが成立した時代が古代。日本の場合は奈良時代から平安時代にかけての時代を呼ぶことが多いですが、ヤマト政権が成立したと思われる古墳時代などを含むこともあります。
古墳時代から奈良時代にかけての諏訪は、一言でいえば田舎。古墳時代以前の弥生時代に稲作が各地に広がっていきましたが、稲作に向く土地が少ないこともあってか、かつてのような繁栄の痕跡が見つかっていません。
それ以前から人は住んでいたので、小さな集団や首長、原始的な信仰などもあったのでしょうが、後につながる「諏訪信仰」の原型はおそらく6世紀後半に外からやってきた人々が大きなきっかけとなって形成されたと思われます。やってきたのは「馬を扱う人々」、おそらくヤマト王権の人々です。
記録を見ても、考古学的な研究から見ても、諏訪神社(現在の諏訪大社)がめざましく発展しはじめるのは奈良時代末期です。平安前期にかけて、国の公的な書物にも諏訪の神さまが登場しており、その記載から重要性がわかります。
当時は信仰と政治が密接に結びついていた時代。政治的支配者は信仰の支配者でもありました。そんななかで、中央政権において諏訪の神さまが重視されていたということは、中央で諏訪を拠点とする氏族の勢力が盛んだったということです。平安末期のころには、諏訪神社のことが中央の歌集などでも噂話のように語られるようになっています。
そして、諏訪信仰の転機となる信仰上の文化もこの時期に発展しています。神さまと仏さまを一体・同一と見なす神仏習合です。この神仏習合がこの時期全国に広がっていき、日本の信仰の基本思想となっていきました。ただし、諏訪にはこの時期の物証や記録がほとんど残っておらず、その実態がわかっていません。この時代は諏訪の歴史における大きな謎と言えます。
武家政権が成立する中世は、武家をはじめとする支配階層の人々はもちろん、庶民も天災に加えて戦や圧政による死や一族滅亡が身近な時代でした。こうした背景もあってか、この時代は日本史上類を見ないほど信仰世界が深まりと広がりを見せています。とりわけ死後の救済を説く仏教は存在感を増していきます。各地の大きな神社にも、神仏習合の思想を背景に神社付属の仏教建築である神宮寺が併設されていき、神官とともに社僧と呼ばれる神宮寺で仏事を行う僧侶が常駐するようになっていきました。
諏訪神社に残された資料でもっとも古いものはこの武家政権が生まれた鎌倉時代のものです。神宮寺の成立についてもこの時代の資料で見て取ることができます。信憑性が高い資料でもっとも古いのは、13世紀末に上社神宮寺の造営についての記載です。
そのため、従来は諏訪神社の神宮寺成立はこの記録の時点と考えられてきました。ですが、これは全国的な情勢を見てもかなり遅い時期。諏訪の支配者たちの出自や中央政権との関係を考えても、時期的に遅すぎると言えます。こうした点も諏訪の歴史における大きな謎となっています。
中世の諏訪信仰最大の特徴が、「大祝(おおほうり)」という存在です。これは諏訪神社の最高祀官である役職なのですが、大祝はそのまま領主であり、同時に現人神(あらひとがみ)、つまり神さまとして信仰の対象ともなっていたんです。
ですが、戦国時代になると混乱や勢力争いが起こり、諏訪神社の諏訪氏は宗家と大祝家のふたつに分裂し、対立することに。そして、徳川幕府が成立した後、宗家諏訪家が諏訪地方の藩主(当時の高島藩)、つまり「殿様」になりました。
一方の大祝家はというと、この時代に徐々に実権を失っていきます。江戸時代には宗門改めという人々の信仰宗教を調べる制度が生まれています。これはもともと幕府が禁じたキリスト教の信者を見つけ出すためにつくられた制度なのですが、時代とともに戸籍の役割を担うようになっていきます。そのなかで、個人の戒名や没年などを記載する寺院の過去帳が戸籍台帳の性質を帯び、神仏習合の形を取っていた神社でも僧侶の権力が大きくなっていきました。江戸時代の諏訪神社の境内図を見ると、大祝を筆頭とする神官の勢力よりも神宮寺の勢力が優っていたことがよくわかります。こうして大祝は実権を失い、「お飾り」のような存在になっていきました。
近代日本の幕開けとなる明治時代は、政治だけでなく文化や生活も劇的に変化した時代です。信仰・宗教にとって大きなターニングポイントとなったのは、一体となっていた神道と仏教を分ける神仏分離の動きでしょう。武家政権から天皇を中心とした国家体制へ移行するなかで、民衆を一枚岩にする手段として神道が利用されることとなり、それまで一体となっていた神道と仏教は分離されることになります。
なかでも象徴的なできごとは明治元年(1868年)の「神仏判然令」発令、そしてその後に起こる人々による仏教施設や仏像の破壊運動「廃仏毀釈」です。このふたつは非常に関係の深いものですが、一方で神仏判然令という布告ひとつが廃仏毀釈運動を産み出したわけでもありません。江戸時代に強い権力を持つようになっていた仏教に抑圧された神社や庶民の反動もあったでしょう。また、西欧合理主義を知った人々の目には、かつての宗教が「自分たちを騙していたまやかし」のように感じられたのかもしれません。そうした心理的土壌に新政府の思惑と新時代を迎える熱狂が混ざり合い、廃仏毀釈という行き過ぎた運動は起こりました。
こうして、日本中で貴重な仏教建築や仏像などが失われていくことになります。甲州街道と中山道のターミナルであった都市部・諏訪でも、それなりの破壊や変革がありました。また、世襲の神社神職である社家の多くが存続を許されなくなりました。理由はわかっていませんが、出雲をはじめとする由緒ある社家の多くが今なお存続していることを考えると、何か特別な理由があったのでしょう。
一方で、幸いにして諏訪での廃仏毀釈はほかの地方に比べて特別激しいものではありませんでした。神宮寺は破却されたものの、僧侶や檀家衆の努力もあり、諏訪大社上社・下社の神宮寺に祀られていた多くの仏像や経典、仏具などは系列の寺院に引き取られ、現在も大切に保存されています。
今回のプロジェクトで公開される仏像や仏具は、こうした歴史を経て生き延びてきたものなのです。