平安後期から明治維新までの長きに渡り、日本では神仏習合の考え方が根付いており、諏訪大社(当時は諏訪神社)もその仏教的表現である「神宮寺」と混然一体の存在でした。上社下社それぞれの「神宮寺」には堂塔伽藍や複数の付属寺院があり、そこには多くの仏像が存在していました。しかし、明治維新を経て成立した新政府は神仏分離政策を押し進め、慶応4年(1868年)の「神仏判然令」により「神宮寺」は廃止されてしまいました。その際多くの仏教文化財の破壊が行われ(廃仏毀釈)、諏訪においても上社神宮寺五重塔など多くの貴重な文化財が失われました。
しかし幸いなことに、当時破壊を免れた仏像や仏具などの仏教美術品が、信徒たちの尽力もあって現在も周辺の寺院等に数多く受け継がれています。そのなかには諏訪市仏法紹隆寺蔵「普賢菩薩像」、岡谷市平福寺蔵「阿弥陀如来像」、岡谷市照光寺蔵「千手観音像」など、歴史的価値、美術的価値共に高い優品とされる仏像も含まれています。
諏訪大社に神仏習合の歴史があったことや、神宮寺由来の仏像等が多数存在していることは一般にあまり知られていませんが、これらは言わば「もうひとつの諏訪信仰」の痕跡を示す貴重な歴史的文化遺産と言えるでしょう。こうした歴史に改めて光を当て、破壊を免れて現存する仏像等を改めて調査・研究することは、諏訪信仰の実態をより深く理解するための意義深い機会になることと思われます。